『民主主義の内なる敵』読書ノート1

「進歩、理念、自由、人民」というリベラルな理念が内なる敵を生み出す。新たな多元主義と民主主義再生へ向けた、渾身の政治文化論。

 上記のような帯の言葉に惹かれ、この本を丁寧に読んでみたいと思った。2012年に出版された本で、早くも2016年に翻訳されている。著者のツヴェタン・トドロフは1939年にブルガリアに生まれ、34歳でフランス国籍を取得。ロラン・バルトの指導を受けた研究所の教授であるとのこと。

第1章 民主主義の不具合

 この本の書き出しは、「自由の問題はきわめて早くから私の人生に侵入してきた。私は24歳まで全体主義体制の国に住んでいた。共産主義のブルガリアである」となっている。物資不足や自由が制限されていたことが語られる。しかし、そこからの展開が予想と異なる。「私は第一段階において、自由は民主主義の根本的な価値の一つだと信じていた。その後、私は自由のある種の使用法は民主主義にとって危険であることに気づいた。」

 20世紀の民主主義体制と全体主義体制の衝突、それからイスラム原理主義が言及された後に「テロ行為がこれらの社会に与えた損害によるものよりも、それが引き起こした派手な反応」に着目する。

 もし全世界の人が、いわゆる先進国が享受しているような生活を送るのならば、世界はその物質的負担に耐えられないだろうという事柄などに触れた後で、本書の核心部分と思われる、次のような陳述が行われる。
「民主主義という理念それ自体に本質的に属する危険は、その構成要素の一つを切り離して考え、もっぱらそれのみを優遇することからやって来る。(略)人民、自由、進歩は、民主主義の構成要素である。しかしそれらのうちの一つが、それ以外のものとの関係から解放されるならば、このようにしていっさいの限定の試みから逃れ、唯一の原理に格上げされるならば、それれは危険へと変化する。ポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰、つまり民主主義の内なる敵である。」

 ヒュブリス(傲慢)、行き過ぎと対置されるのは、中庸、穏健である。
「近代民主主義諸国の住民は、神々をも原罪をもかならずしも信じない。だか彼らの野心へのブレーキの役割を果たすのは、社会組織と民主主義体制の複雑さそのものであり、民主主義体制が和解させることを機能としている多様な要求であり、民主主義体制が満足させようとしている矛盾し合う利益である。民主主義の第一の敵対者は、多元的なものを唯一のものに還元し、かくして行き過ぎへの道を開く単純化である」

第2章 古来の論争
 現代の世界・社会を考察する前に、4~5世紀のローマに活躍したペラギウスとアウグスティヌスの論争が参照される。この論争はアウグスティヌスが勝利して正統の地位を勝ち取ったが、この論争は、形をかえて歴史の中で繰り返されたというのが著者の主張である。「これは、キリスト教史全体でもっとも重要な対立の一つである」

  ペラギウスの主張の核心部分は、「人間は自己自身を救済することができる」という内容である。「神の命令を実行するのに神の助けはまったく必要としない、と彼らは主張する。というのも、神の恩寵は私たちに自由意志を与えたからである」 教育、社会的環境、個人の努力が求められるものだ。金持ちは貧しき者たちに自分の財産をただちに分配しなければならない。「ペラギウスは人間の能力について楽観的なヴィジョンを抱いている。まさにこのことから、彼は自分の要求の水準をきわめて高く設定する。失敗しても、個人には弁解の余地はない」

 アウグスティヌスはペラギウスを攻撃。富める者が教会を経由せずに、直接貧者に施しをなすことは困る。「自分を左右する諸力の本性を知らないがゆえに、自分のうちなる支配者ではない人間は、自分の意志を信頼することも、自分の意志に自分の救済を要求することもできない。自由は幻想ではないが、人は全面的に自由であることは決してない。」
 「原罪とは、人類に所属するあらゆる個人に特有の欠如または弱さを意味する。個人は生まれながらにこれを受け継いでいる。」(原罪について)「アウグスティヌスがペラギウスに対する闘いを通じてその教義を練り上げる」
そして、
「原罪とは、恭順を犠牲にして傲慢を選ぶこと、外部の権威の放棄、自分自身の主人であろうとする欲望のことである。人間は自分自身を救済することができると主張することによって、ペラギウスは原罪をくり返し、原罪を賛美する」
「救済されるために当てにすべきは人間の自由ではなく、人間が引き起こすことも予知することもできない神の恩寵である。」
「ペラギウスにとって、理想的な人間とは大人、全面的な自律へと到達した大人である。アウグスティヌスにとって、人間は自分を知らないか自分を認めない子どもである。というのも、彼らは自分の依存と弱さを恥じているからである。人間は、神の腕のなかでは赤ちゃんなのである。完全さに接近できない以上、人間の罪を許さなければならない」

 アウグスティヌスが論争に勝利し、418年、ペラギウスの論は異端であると宣言された。しかし、「アウグスティヌス教説信奉者が勝利したのにもかかわらず、彼らのペラギウス主義者との論争は決してとどまることを知らないだろう」。すなわち、キリスト教は信徒に「地上における神の僕に、したがって教会に)服従することをも、神に似ることをも、つまり自分自身の運命を形づくる自発的な自由な主体として行動することをも、要求するのである」

 この両者の要素が、ルター、カルヴァン、パスカル、エラスムス、モンテーニュ、ルソーで展開されていることが確認される。
「これらの啓蒙主義の思想家たち(モンテスキューとルソー)は、世界と人間の不完全性を受け入れるが、改善することをあきらめはしない。しかし神の恩寵を待つのではなくむしろ、彼らは人間が自分自身でこの不完全性を引き受けるように人間に訴えることのほうを好む。つまり、彼らは保守的な運命論をも全面的支配への夢をも拒否するような中道を選択するのである。」

第3章 政治的なメシア信仰
 「進歩」の要素の行き過ぎ
〇フランス革命、ペラギウス的な計画の過激化
 「平等と自由という理想を掲げながらも、私がここで政治的なメシア信仰ーメシアなきメシア信仰ーと呼んでいるものは、それに固有の最終目的(楽園の等価物を地上に築き上げる)、およびそれに到達するための特定の手段(革命と恐怖政治)を所有している。
 「政治的なメシア信仰の大きな特徴が出そろう。高潔なプログラム、役割の非対称な分配、すなわち一方の積極的な主体、他方の消極的な受益者ー彼らから意見が問われることはないー、計画のために役立たせられる軍事的手段である」

〇共産主義
 著者はブルガリアの監視的な生活を振り返り、「この悪全体が善の名において実現されており、崇高なものとして提示された目的によって正当化されていたということである」

〇ユーゴスラヴィア、イラク、アフガニスタン、リビア
 「共産主義帝国の崩壊以降、第三の政治的メシア信仰が確認される-これは近代民主主義に起因する最初のものである。」
 「私たちの民主主義にのしかかっているもっとも強力な脅威の一つ」は、とセルジュ・ポルテッリ判事は書いている、「絶対的安全の社会、つまり寛容ゼロ、根本的な予防、予防的な拘禁、外国人の無条件な不信、あらゆる領域に及ぶ監視と統制の社会という脅威である」

 「公正な戦争が存在することは明白である。自衛の戦争(連合国の場合の第二次世界大戦、あるいは2001年のアフガニスタンへのアメリカの介入)、ジェノサイドあるいは大量虐殺を妨げる戦争(1978年から1979年にかけてカンボジアで行われたジェノサイドを中断させたヴェトナムの介入)である。それに引き替え公正でないのは、メシア信仰的なプロジェクトに組み込まれ、よりすぐれた社会秩序を他国に押しつけたり、人権を行き渡らせたりすることによって正当化される戦争である」
 「諸国家の政治に役立たせられた道徳と正義は、道徳と正義そのものの妨げとなり、それらを強国の手中にあるたんなる道具に変化させ、強国の利益に投じられたヴェールのようなものにするのである。政治的メシア信仰、善と正義の名において遂行されるこの政治は、善と正義のいずれをも妨げる。」
 「いくつかの国のグループが自分たちの意思を他のすべての国に無条件で押しつけようとするとき、国際秩序は改善されることはない。行き過ぎの誘惑はそのときあまりにも巨大になり、民主主義の恩恵を受けるべき諸国の目に民主主義の輝きを失わせ、同時に民主主義を奨励する諸国それ自体においてすらその原則の値打ちを徐々に落としていくおそれがあるのである」

 第4章以降は、また後で。

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