2024年の東京都知事選の結果を受けての考察

東京都知事選が終了し、現職だった小池百合子氏が勝利し、三選を果たした。2位には前広島県安芸高田市長である石丸伸二氏が入り、立憲民主党の参議院議員だった蓮舫氏は第3位だった。現職の実績が評価された形であったが、明治神宮外苑などの批判については、議論を避ける形で行われた選挙活動だった。その意味で、選挙が持つ「権力者の監視」という機能を今回の選挙が果たしたか否かという点については、不十分だったと評価するべきだろう。

なぜ、選挙の持つ権力の監視作用が機能不全に陥っているのか。これについて、一つの抽象的でわかりにくい理由を示すのがこの記事の目的である。特定の人物のカリスマ性や、逆に問題点、何らかの組織による陰謀論のような分かりやすい理由による説明をしりぞけたいと考えている。

参考にするのは、政治学者の山口二郎によって書かれ、今年の6月に出版された『日本はどこで道を誤ったのか』である。山口は次のように述べている。「人間は生まれてから死ぬまで、様々なリスク(災難、試練)に遭遇する。それを個人で引き受けるか、社会全体として処理するかは政治の大きな対立軸である。」日本社会の政治的特徴の一つは、リスクを担う中心が、アメリカのような個人ではなく社会であるとされている点である。もう一つは、その運用が客観的なルールではなく、担当者の裁量によって決定されてしまうために「裁量的政策によって利益を得ることについて、受け取る側と、権限・財源を握る官僚および政治家との間に、恩に着る・着せる関係が成立する」という点である。

山口の著書では、1970年代の日本でもすでにこの点への問題意識が提出され、パターナリズムを排してリスクの社会化の仕組みを整備するという構想が示されていたことが指摘されていた。残念ながら、それは実現しなかった。むしろ今回の都知事選が示したのは、裁量的政策や心性の進展と、普遍的なルールによって人間が生きている間に生じるリスクを社会全体として受け止め、コントロールしようとする意志の後退である。裁量が幅を利かす社会の中で、全体のことを考えずに、それぞれの個人が上手くやることに注力する傾向が強くなっている。これは日本だけでなく、グローバルな市場主義の進展によって世界中で進行していることかもしれない。

今回の都知事選では、現職の小池氏は特に高齢者によって支持が高かった。現在の東京や日本の財政を考えるならば、現状批判的な機運が政治の場で高まれば、高齢者福祉の負担について議論が起きる可能性がある。その意味で、高齢者が現状維持を目指そうとする行動は理解しやすい。

興味深いのは、現状に批判的な意識を持つ人々の投票行動が石丸氏と蓮舫氏に分かれ、石丸氏の得票数の方が上回ったことである。立憲民主党のような、日本社会で与党や権威主義的なものへの批判を担っていた勢力が、都民から十分な信用を得ることができず、まさに機能不全に陥っていることが示されてしまった。この理由は明確である。この数十年、日本の左派勢力も、与党に負けず劣らず「裁量パターナリズム」的な党派運営に走り、普遍的なルールによるリスクの社会化という課題をおざなりにしてきたからである。伝統的な日本の社会システムとして権威主義的な機構に、彼らもガッチリと組み込まれていたのだ。

一例を挙げよう。私は福島県で仕事をしているが、反原発運動が「放射線被ばくの直接的な健康影響」をステレオタイプ化して喧伝し、批判を受けてもその誤りを一切認めようとしなかったことから、強い不信感を抱くようになった。これについては、別の媒体で「鼻血と日本的ナルシシズム」という小文を書いたことがある。(参考:https://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/nose-bleed_b_5350040.html)

現状に不満を持っている層にとって、このような伝統的な体質を帯びた批判勢力を選択する理由はどこにあるのだろうか。現職を退ければ新規の政権担当者は一時的な混乱や後退をもたらす可能性が高い。そうであっても、縁故でガチガチになった政局を中断させ、権力者の恣意ではなく合理的なルールに沿ったリスク対応をしてくれれば、将来の社会に発展を期待できるから変化を求めるのだ。しかし、権威主義的な現状を批判した結果、別の権威主義的な状況が出現することが予想されるのなら、直接の利害関係者以外はそちらに期待を寄せることはないだろう。

今回の都知事選で、伝統的批判勢力以上の支持を集めたのが石丸氏だった。石丸氏は実務能力の高さを示し、改革の可能性を見せることで若者を中心に支持を集めた。しかし石丸氏についても、裁量ではなくルールによる政局運営を本当にもたらしてくれるかには疑問が残る。石丸氏が特定の政治家や企業の支持を受けていることを隠さず明かしているからだ。彼には最近流行の企業の「コンサル」に近い思考や行動のパターンを感じる。それは、自分と関わることで関わった人の仕事(ジョブ)を減らすと示し支持や応援を得ることだ。選挙においても、「自分を支持することで、社会を良くするための選挙民のジョブを減らすことができる」というメッセージを送っている。このこと自体は悪いことではない。しかし、懸念されるのは、石丸氏に対する過度の依存が支持者の間に出現しないか、という点だ。

裁量ではなくルールによる政局運営を実現するには、有権者・国民一人ひとりが、自分の目の前の利益を減じることがあっても、コネによる利得を諦め、公共のルールを重んじる思考や行動を実践する必要がある。しかしこれは、国民に面倒な仕事(ジョブ)を増やすことを要求することであり、進展した資本主義・消費社会である日本では忌避されるメッセージになっている。その傾向が強まった結果、国民に主権在民の原理原則を実現する主体であることを求める風潮が弱まり、権威主義的な構造に参加しようとする心性が強まっていることが明確に示されたのが、今回の都知事選の結果だった。

そのような世相に抵抗することにも意味があると考えて、この小文を準備した。


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