
日本人研究③日本人の自我「長いものに巻かれよ」
日本人の一般的な特性、日本人に独特だと思われる、物の考え方、感じ方を挙げてきた。
日本は二千年以上続く、世界最古の国家であると言われて、歴史的にも、地理的にも、一時期を除けば、「異質」と社交することなく、鎖国同然の島国であった。
だから、日本人の心理と呼べようものは、長年崩されずにきたはずである。
今回のは、日本人の自我の特徴の一つである「服従」について。
「長いものに巻かれよ、太いものに呑まれよ」「郷に入りては郷にしたがえ」
と服従をすすめる考え方は今日の日本人の中に根強く残っている。むかしから、民衆が心がけるべきことでもあった。
明治政府の指導者たちは、このような権力への服従心を利用して、天皇絶対主義の国家を作り上げ、無条件な服従心を民衆に植え付けた。
今日の学校や企業などの社会においても、「服従」は最も重要な価値とされて、人々は「管理」されて、自由な自我の成長が阻害されている。
また、現代の日本人子育ても、基本、「過保護」「過干渉」、特に母親は「母子一体感」を土台にした心理的安定を求める傾向が強く、やはり、自立機能を阻害する要因となっている。
さすがに都会では、今日、「いうこと聞かないとお巡りさん呼んでくるわよ」という言葉は聞かなくなったが、それでもたとえば、若者の間でも「お巡りさん、このひとです!」と冗談を言ったり、親が子どもを叱りつける時に「家から出てきなさい」とか、子どもが先生という権力を利用して「いーけないんだーいけないんだー、先生にいってやろー」とちくる。このように権威の恐ろしさを心の中にしみこませた言葉がたくさんある。
日本人の権力に対する服従心は恐怖だけではなく、利己心からもくる、それは、要領よく従うことで、自分の安全を守る、媚び売りをともなった服従心である。
日本に独特な「会食」で一番効果を表す。
それは役人や政治家、実業家との会食を利用してやろうとする下心からくる。
現代社会のそれを最も端的に表したのがドラマの「女王の教室」である。(服従と利己心)
滅私奉公
「滅私奉公」といわれる「わたしがない」という昔からの言葉は、「長いものに巻かれよ」と似ている。
このような服従精神の植え付けは、権威への無条件の服従を自動的に使っていくと同時に、先も述べたように、自由な自我の成長を妨げてしまう。
「自分を忘れ、身勝手をしないで、ひたすら、目上の人に「奉公」しなさい」
日本人の伝統的な考え方はこうだった。
「我を殺す」
そして、あらゆる自主性は、「身勝手」とか「屁理屈」とかでしりぞけられてしまう。
触らぬ神に祟りなし
権威への絶対服従という習性が強くなってくると、やがて何事にも「事なかれ主義」をとる習性が広がってくる。
自分よりも上位者に対する服従に表れるが、同等のあるいは以下と思う人たちに対しても、「八方美人主義」としてあらわれる。
日本人が特に初対面において「人当たり」がよいと言われるのはこのことが理由である。
つまり、誰の意見にも「それなー」「ごもっともです」「はいはい」と従っておき、自分の意見は「うーん、どうなんだろう」「よくわからない」からといって、けっして自己表現しないスタイルである。
日本人の服従の習性は、「受け身」「消極性」にも広がっていく。
すべてのことにたいして自主的な態度を取らなくなってしまう。
日本人が外国人からみて遠慮がちで引っ込み思案に見えるのは、多くの場合、この服従の習性が根本的にあり、そこから生まれる消極主義になってあらわれる。
それは自己責任の回避であり、日本人の自信のなさや卑怯さの表れで、利己心の場合が多い。
しかし、それは「長いものに巻かれよ」、つまり、自分の意見を述べることで、「屁理屈」「偏屈」「わがまま」「身勝手」「空気を読めてない」などと、日本人集団から排除されてしまわないかという恐れもある。
そして、やがて何に対しても「知らない」「わからない」「うーん」といった消極的な返事をしたり、あるいは、質問されたら、意見を求められたりしても、黙っていたりすることになる。
今日の国際会議の場でも、どうしたら日本人が遠慮なく話してくれるかといった悩みが冗談としてもよく言われる。
そして、「八方美人主義」は、他人と争いを避けながら、しかし、自分の意見を曲げずに心の中に押しとどめ、本人のいない場所で、愚痴ったりしてストレス発散をする。
このような「服従」「沈黙」「相槌」や、日本人が「大人しい」「遠慮がち」「控えめ」だとよく指摘されたりするのも、元来、自分の安全を願う気持ちから起こることだから、その意味では、日本人の「集団主義的な行動」は、じつは利己心から来るものが多いのであり、近代的な意味での、自由な自我の主張ではないけれども、日本人集団の中で生き残る「戦略」として大変役立っている。
近代に失敗した日本
ところで日本は、江戸幕府崩壊後の明治以降になっても徹底した近代社会にならなかった。
だから、大部分の日本人にとっても、江戸以前の古くからのなごりが根強く残っており、自由な個人の自我、主張というものが確立される社会的な土台がなかった。
福沢諭吉は積極的に個人の自由な必要性を説いた最初の日本人である。
人の自主自由独立は大切なるものにて、(中略)家も治らず、国も立たず、天下の独立も望むべからず
しかし、福沢の望むような、健康的な個人主義は、明治以来、今日に至るまで、一部を除き、日本人のあいだに、広がっていくことが、残念ながらできなかった。
前に述べたように日本人の大部分にとっては、今日でも、無縁である。
代理満足
しかし、人々は、服従のなか、自由な自我をなんとか求めたり、そして、抑圧感が、利己心となって表れたりする。
そうして、これは、以下のような形となってあらわれる。
1、セックスやアニメ、ファッションなどのサブカルチャーによる代理満足。
2、服従の仮面をかぶって、テキトーに利己主義の目的を達成する(要領主義)、まじめにやるとバカを見るからろくなことがない、レールや枠にはみ出ない形で、「優れた人間」として評価されること。
服従すればするほど、要領が重要になる。
3、自分が上位者からうける暴力や服従についての不平不満を、自分より下位者に対する暴力で晴らす。(上司、先輩後輩など)
4、他者の責任を問い、それをあくまで追及することを目的として、そこから得られる優越感や達成感を楽しむ。(日本的暴力性1)
5、集団が自分たちにとって弱者とみられる対象に対して、いじる、いじめる。個人では絶対しないようなことを、集団メンバーと共にすることで憂さ晴らしする。(日本的暴力性2)
6、名前や顔などがわからない匿名によって相手を攻撃する。(日本的暴力性3)
日本社会の特殊性
とりわけ日本社会では、明治以後になっても、権力による服従が続けられて、西欧のような、近代的な社会革命なり、人間革命ができなかったから、日本人による反抗もまた、権力を真正面から否定する形ではなく、利己心と絡み合った、自己中心主義的な主張となってあらわれやすいのである。
それは、近代的な自我の確立に向かうのではなく、ある枠の中で、「個人の自由」というタテマエのもと、わがまま勝手に振る舞う傾向へとなり、そうしてこれは、他人の自我を認めたうえの自我主張ではなく、人間への不信や軽蔑から出発している。それは卑怯さでもある。
その典型的なのが最近のメンタリスト・DaiGo氏の、炎上発言に対する反応「あくまで個人の感想だ」
DaiGo氏個人が発言した内容だから、「あくまで個人の感想」というわかった上で炎上しているのである。彼は「個人の自由のタテマエ」のもと「わがまま勝手に」行動した結果、見苦しい言い訳となってしまった。
人それぞれと言いたいのだろう。他にも、
多様性を受け入れない価値観も多様性だ
と、やはり、近代的な自他の存在を認める自我の確立ではなく、自己中心性に満ちた暴走になりやすい。
SNSが普及した昨今ではそれが顕著であり、特に、男性らが、インターネットで攻撃的傾向になっているのもその一つであろう。
日本人の自我
元来、自由な自我とは、服従や圧政を否定して、自分自身の手で権力から解放する社会革命を通して、はじめて実現できる。
ところが、日本人の場合、歴史的にそれがなく、明治維新、アジア・太平洋戦争の敗戦も、国家権力は、国民全体の手によってではなく、一部の指導者や、敵国によって崩されて、それにとってかわった「自由」を与えられた形である。
そのために、日本人の大多数にとっては、反抗・抵抗は、直接、社会革命の流れではなく、せいぜい自己中心主義の暴走によって終わる。
また人々の服従心を都合よく正当化する権力側の方便にも使われる。
それが麻生太郎氏であった。
いままでの「長いものに巻かれよ」と強制されてきた服従を否定したり、戦後も「米国の犬」となった国家を、自分たちの手で倒した結果、得られた自由ではなく、いつも権力によって与えられた自由であり、人は、ただ、権力への不信や、人間一般への不信を感じるのである。
この不信は戦後、現代とつづき、SNS普及によりさらに広がって、けっきょく、自分だけが大切であり、という自己中心主義になっていく。