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『弄談〜いのちであそびて〜』台本


『弄談(ろうだん)~いのちであそびて~』

                    作:安島崇

          原案:渡辺キョウスケ、岸田國士


 霧が深く立ち込めている。
 鉄道線路の土手——その下が、材木の置場らしい僅かの空地、黒く湿った土の、ところどころに踏み躙られた雑草。
 遠くに、シグナルの赤い灯。どこかに月が出ているのだろう。

 着物を着て、眼鏡をかけた男——鶴泉(つるみ)南雲(なぐも)が、ぽつねんと材木に腰をかけている。首にはマフラーを巻き、その右腕には、包帯が巻いてある。

 コートを着て、包帯をした男——志田(しだ)興邦(おきくに)が現われる。顔中包帯で包んでおり、両方の眼と、鼻の孔と、口の全部、それだけが切り抜いてある。両手には白い手袋をつけている。

 南雲の前を行ったり来たりする興邦。そこに人がいるのを知らないようにも思われる。


南雲  踏切はもっと先ですよ。

興邦  そうですか……踏切はもっと先ですか……踏切は、もっと先、と……(南雲の隣りへ腰かける)

南雲  どこかへいらっしゃるんですか?

興邦  行こうと思うんですがね。君も、どこかへいらっしゃるんですか?

南雲  行こうか、どうしようかと思ってるんです。

興邦  なるほど。どんなものですかね。うまく、ひと思いに行けますかね。

南雲  さあ。行って見ないことには、わかりませんね。

興邦  ……しかし、冷えますね。

南雲  二月ですからね。

興邦  そういえば、そうでしたね……どうも記憶がぼんやりして……君は、どう思います?この場所について。

南雲  というと——やはり、あなたも迷っているのですか?

興邦  ええ。線路が一本伸びているだけですからね。迷うことはないんだが……

南雲  どこをどう歩いても、すぐそこの駅へと戻ってきてしまう。

興邦  ええ、そうです、そうです。

南雲  やはり、八ヶ森(やつがもり)と同じ系統か……

興邦  え?

南雲  いえ、こちらの話です。しかし、噂は本当だったようですね。

興邦  噂?

南雲  死というものに魅了された人間が囚われる、霧に閉ざされた無人の駅——この辺りでは有名な噂なんですがね。ご存じありませんでしたか?

興邦  ええ。しかし、そうですか。(自嘲気味に笑い)僕はてっきり、とうとう頭までおかしくなったかと。

南雲  なるほど……偶然に、この場所へ……

興邦  あなたは、知ってらっしゃった?

南雲  ええ、職業柄。

興邦  職業柄?

南雲  僕の名前は鶴泉南雲。怪談師を生業としています。

興邦  ツルミナグモ——風の噂に聞いたことがある。たしか、あの怪談が話題の——何と言ったか——そう、『燃え盛る洋館の幽霊』。

南雲  ご存じでしたか。しかし驚きました。まさか噂が本当だとは。

興邦  たしかに面妖だが——よくよく考えれば、そう慌てるようなことでもない。

南雲  と、言うと?

興邦  どうせこれから死ぬんですから。そうでしょう?僕はこう見えて、センチメンタルなことは嫌いな男ですがね。書置き一つしてないんです。

南雲  ほう。

興邦  僕は、死ということによって、ある問題を解決しようとしているのではなく、既に死人に等しい自分の体を、自分で始末しようとしているだけなのです。だから、何も今更、英雄的な覚悟や、非現実的な空想で、此の一瞬間を悲壮な物語に作り上げる必要はないのです。

南雲  なるほど。わかります。

興邦  〝わかります〟?

南雲  え?

興邦  今、〝わかります〟と言いましたか?いや、いや——君はわかっていないんです。君は、こう言っちゃなんだが、一時の出来心でしょう?

南雲  はあ。

興邦  違いますか?まあ、それならそれでいい。お互いこうして偶然、同じ死に場所を選んで、そこへ同時刻に落ち合った——ただそれだけの事実に、そうこだわることはない。幸い、こんな場所でも電車は走っているようだ。

南雲  そうですね。果たして誰が運転しているのか。そして、誰が乗っているのか。

興邦  確かに、気にならないと言えば嘘になる。しかし、やはりどうでもいいことだ。

南雲  しかし、こう見えて僕は、人一倍物事を考えるたちなんです。細かいことがどうにも気になる。この空間のこともそうですし——あなたのこともです。

興邦  私のこと?

南雲  ええ。あなた、お名前は?

興邦  どうでもいいでしょう。覚えたところで、どうせこれから死ぬ人間だ……

南雲  まあ、仰りたくないのであれば、無理には訊きませんが——

興邦  僕の名前は志田興邦。

南雲  話すんですね。

興邦  志に、田んぼの田。興味の興に、国を意味する邦の字で志田興邦です。

南雲  〝国を興す〟で興邦——いい名前だ。

興邦  名前負けですよ。その名に恥じぬ男になろうと努力した時期もありましたがね。

南雲  なぜ命を絶とうと?そう深い事情も、おありにならないようですが……。

興邦  (ムッとして)そう見えますか?いや……それならそれで、別にかまいませんがね……此の包帯がわかりませんか?

南雲  怪我でもなすったんですか?(右手を掲げ)僕もちょっとした不注意で、この通り。

興邦  一緒にしないでください。私は、実験の失敗でこうなったのです。

南雲  実験?

興邦  僕は学者でね。まあ、戦前は医者もやっていましたが——戦時中は、とある機関の研究員をしていました。

南雲  どのような研究です?

興邦  言っても理解できませんよ。それに、これから死ぬのに昔話なんて……

南雲  まあ、仰りたくないのであれば——

興邦  僕のいた施設では、少々特殊な研究をしてましてね。

南雲  話すんですね。

興邦  つまり、通常は研究の対象にならないような——所謂、オカルティックな研究です。死人を蘇らせたりだとか、超能力で敵国の動きを予測したりだとか……まるで、カストリ雑誌の三文記事でしょう?

南雲  怪談師としては、なかなか興味深い話です。

興邦  そうですか?ならいいが——私はね、その研究機関で、不死の研究をしていました。

南雲  不死?

興邦  ええ、「死なない兵士」の開発です。

南雲  凄いじゃないですか。

興邦  成功すればね。しかし、動物実験は失敗につぐ失敗。日に日に戦況は悪化し、軍部も痺れを切らしていました。僕は、何としてでも結果を出さねばならなかった。だから僕は——僕は、禁忌を犯してしまったんです。黒魔術ですよ。僕はかつて、独逸(ドイツ)に留学していましてね。


 どこからか軍靴の音と「ハイル、ヒトラー」という掛け声が聴こえてくる。


興邦  当時の独逸では、交霊術や占星術といったオカルトが流行していました。ナチの幹部にも、多くのオカルティストがいたらしいが——兎に角その時、とあるツテで手に入れたんです。不老不死になる方法が記された、魔術書を。馬鹿げているとお思いでしょう?追い詰められていたんです。それにね、あの研究機関はまともじゃなかった。私も知らず知らずの内に、その狂気に飲まれていたんです。魔術と科学の融合こそが、人類の未来を拓く——私達は、人体実験へと踏み切りました。

南雲  あなたが被験者に?

興邦  いいえ、同僚です。いい奴でした……実験は順調でした。もう九分九厘まで成功しかけていたんです。ところが、何がいけなかったのか……彼の瞳は次第に血走り、皮膚は赤紫に変色をし始めました。僕は途端に恐ろしくなった。正気に戻ったんです。実験を止めようとしたが、同僚は叫びました「このまま続けろ」と。彼の顔は恍惚としていた。私は迷った。迷ってしまった。次の瞬間、彼の表情はそれまでとは一転、苦しそうに歪んだ。皮膚を突き破り無数の触手が蠢いたかと思えば、その体は見る見る内にゴム風船のように膨らみはじめ——やがて、恐ろしい悲鳴と共に爆ぜました。


 男の悲鳴と、肉体が爆ぜる音。


興邦  僕は周辺の機器と共に吹き飛ばされ、壁に勢いよく叩きつけられました。意識を取り戻した時、僕は医務室のベッドの上に居ました。鏡を見せられた僕は、あまりのことに絶句しました。同僚の肉片は僕の全身へと降り注ぎ、僕の肉体と同化してしまっていたのです。そのおぞましさときたら——嗚呼——(頭を抱える)

南雲  なるほど……しかし志田さん。僕はやはり、死ぬのは早計だと思いますがね。あなた、どなたか大切な人は居ないんですか?家族ですとか、恋人ですとか。

興邦  恋人か……許嫁が一人居ましたがね。

南雲  今は居ない、と。

興邦  勘違いしないでください。振られたんじゃない。僕が振ったんです。体がこうなってすぐに、医務室のベッドの上で、僕は彼女に手紙を書いた。事故のことは伏せて、「君にはもう会いたくない。顔も見たくない」とね。

南雲  何故そんなことを?

興邦  彼女の為です。こんな姿になった男のことなど、とっとと忘れた方がいい。

南雲  しかし彼女は、あなたの見てくれなど気にしないかもしれない。

興邦  ええ。きっと彼女は「かまわない」と言うでしょう。彼女はそういう人です。

南雲  わかりますね、その気持は。

興邦  僕にはわからない。

南雲  ……わかるじゃありませんか。

興邦  わかるとすれば——彼女が、そういう嘘をつくだろうということだけです。彼女からの手紙を、僕は無視し続けた。やがて手紙は来なくなり、日本は敗戦を迎えました。結局、僕の研究は無意味だった……(溜息を吐き)少し話し過ぎたな。それで?君はどうなんです?

南雲  僕ですか?

興邦  人の自殺を止めておいて、自分は死のうとしている。君の抱えている問題というのは、そんなに深刻なんですか?

南雲  そうですね……確かに、あなただけに長々と話させたのでは不公平だ。僕の話もいたしましょう。僕の死ぬ原因はね——そう、とある女性です。

興邦  もうその先は、伺わなくってもわかるような気がしますが、それじゃ、ただの恋愛事件ですね。

南雲  凄い早さで決めつけてきますね。

興邦  つまり、その娘さんと添い遂げられなくなった。それで悲観の末、と——こういうところらしいな。

南雲  何が「ところらしいな」ですか。勝手に終わらせないでくださいよ。僕は、元は孤児でして。路頭に迷っていたところを、ある女性に拾われたのです。彼女は怪談師を生業としており、その話芸と艶っぽさで人気を博していました。

興邦  なるほど、その女性が君の育ての親であり、怪談師としての師匠というわけだ。それで、その人がどうなったというんです。

南雲  死にました。殺されたんです。

興邦  殺された?

南雲  ええ。戦後まもなくのことです。


 風が強く吹く音。


南雲  昏(くら)い嵐の夜でした。僕は、何事かを激しく言い争う声で目を覚ましました。慌てて階段を降り、襖を開けた僕が目にしたのは、畳の上、血だまりの中に倒れた師匠と、それを見下ろす、返り血を浴びた兄弟子の姿でした。


 雷鳴。


興邦  彼は、どうしてそんなことを?

南雲  わかりません。本当にわからないんです。彼も孤児でね。僕達は、一緒に引き取られた。兄弟も同然だったんです。彼が——兄様が何の理由もなくあんなことをするとは思えない。だから、何かしらあったのでしょう。僕の知らない二人の間の確執が。僕はそれに気づけなかった。僕はこう見えて、人一倍物事を考える方ですがね、もう考えるのも疲れてしまった。僕は馬鹿でした。気づけていればどうにかできたのかもしれませんが、なまじ芸術がどうのこうのと夢中になって、くだらない台詞なんかばかり覚えようとしていたあの時の自分が、情けなくもあり、憎らしくもあり——だから僕は、師匠の後を追おうと決心したのです。

興邦  そいつはつまらない考えだな。君が死んだら、どうなるんです?師匠のそばに行けるとでも思ってるんですか?

南雲  まさか。幽霊やあの世なんて作り事——ファンタジーの存在だ。

興邦  そう思うならなおのこと——え?

南雲  何か?

興邦  君、信じていないんですか?

南雲  はい。これっぽっちも。

興邦  ……怪談師でしょう?

南雲  あくまで飯のタネですよ。大衆はお化けだとか妖怪だとか、そういうお話が大好物ですからね。無論、僕も嫌いじゃありませんよ?しかしそれはあくまで、創作物としてだ。

興邦  そうはっきり言われるとなんだかなあ。途端に、君が詐欺師に見えてきましたよ。

南雲  詐欺師とは心外ですね。弁明するわけじゃあないが、怪談には社会的な機能というものがあったりもする。たとえば、亡くなった方の想いを語り継いだりだとか、夜中に子供が出歩いて怪我をしないようにだとか——


 警笛。電車の音、近づく。


南雲  ……来ますね。

興邦  ですね。


 線路から離れる二人。
 電車が土手の上を通る。両人、それを見送る。


南雲  込んでるようです。

興邦  込んでましたか。夜汽車は陰気だなあ。

南雲  ……死なないんですか?

興邦  死にますよ!死にますとも!君がまだ喋っている途中だったから、先延ばしにしてあげたんじゃあないか!そういう君こそ、何で飛び込まないんだ!?

南雲  いや、喋っている途中だったので。

興邦  ほれ見ろ!おんなじだ!それなのに、僕だけそう責められちゃあねえ。

南雲  別に、責めたつもりはありませんがね。それで、何の話だったか——

興邦  君が、幽霊やあの世を信じていない、という話です。

南雲  ああ、そうでした、——いや、確かにその筈だったんですがね。しかし、見てください、この場所を。噂は本当だった。

興邦  ……確かに、その通りですね。先ほど話した研究機関では、そうしたことを専門にしている学者もいたと聞きます。幽霊やら妖怪やら——兎に角、そうした魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類を、軍事利用できないかという試みです。もっとも、違う施設での研究だったので、僕も詳しくは知りませんがね……その、噂というのはどういうものなんです?

南雲  はい?

興邦  だから、この空間に関する噂ですよ。抜け出す方法はあるんですか?

南雲  抜け出したいんですか?

興邦  そうは言ってない!僕は——僕は、そう、君の心配をしてるんだ。なるほど、君の悲しみは、十分察しられる。然し、決して永久に忘れることの出来ない悲しみじゃない。君はいくつです?

南雲  年ですか……いくつに見えます?

興邦  え?(少し考え)……いくつでもいい!君はまだ若い!人生の花は、これからじゃありませんか!

南雲  あなたはいくつです?

興邦  僕ですか!?あてて御覧なさい、と言ったら君は困るだろう!?年なんてどうでもいい!とにかく、噂について教えるんだ!

南雲  わかりました、わかりましたよ……(咳払いし)先ほども言いましたが、この空間には、死に魅了された人間が囚われてしまうそうです。霧を抜けるには、生きることを強く望む気持ちが必要なんだとか。

興邦  生きることを、強く……

南雲  ええ。しかし僕はもう、そんな気持ちにはなれない……

興邦  何を馬鹿な。君なんか、まだこれから、どんな仕事でも出来る。どんな恋でもできる。殊に、芸術家と言えば、仕事そのものが恋人じゃないんですか?一種のヴオルルストというか——これは独逸語で〝官能的快楽〟という意味ですがね——、そういうもんがあるんじゃないんですか!?

南雲  そんなことなら、あなた方のお仕事でも、やつぱり、恋人に対するような心持ちになれるでしょう?食うことや寝ることを忘れてまで、仕事に熱中するなんて——よくそんな話を聞くじゃありませんか。

興邦  それはまあ、学者の一面には、そういうところもありますが——

男の声  志田……志田……!

興邦  ひっ!

南雲  志田さん?どうしました?

男の声  志田……痛え……痛えよお……!

興邦  馬鹿な……この声は……

南雲  そういえば、ここには他にもいろいろな噂がありましてね。例えば、抜け出そうとする人間には、それを止めようとする亡霊の声が聴こえてくるとか——

興邦  そうだ……僕にはもう、研究を続ける資格はない……実験台には、僕がなるべきだったんだ……

南雲  聴こえるんですか、同僚の声が?

興邦  すまない……すまない!

南雲  志田さん!?


 警笛。南雲を突き飛ばし、土手の上に走り上る興邦。
 此の刹那、電車が通る。興邦の姿が消える。


南雲  しまった——志田さーん!


そう言っていると、土手の上から、興邦がのっそり降りて来る。


南雲  ……やらなかったんですか?

興邦  やったさ!やったけれど、勢いをつけ過ぎたんだ!線路の向うへ飛び込んだんだ!しくじった!此の次だ!

南雲  亡霊の声は?

興邦  え?ああ、今は聴こえませんが——大体ね、君の自殺には、僕は反対なんだ。そうだ。そうとも。僕が生きている間、君を殺すわけには行かない!

南雲  じゃあ、僕を生かす為めに、あなたも生きることを考えたらどうです?

興邦  何?……君、どうも怪しいな。本当にに死ぬ気があるのかい?

南雲  何を馬鹿な——僕は、本当に死ぬつもりで——


この時、また警笛が響く。やがて、電車の近づく音。


興邦  来たぞ?

南雲  ……死にますよ、死にますとも!それっ!


 この間に、素早く土手の上に駈け上る。電車が通る。姿が消える


興邦  ああっ、やりやがった!本当にやりやがつた!畜生、そんなつもりじゃ——


 興邦がふと土手の上を見ると、南雲が眼をこすりながら、とぼとぼと降りて来る。


南雲  すいません、目に、ゴミが……

興邦  ゴミ……?

南雲  ああ、痛い(眼をこする)あいたたた……すみませんが、ちよつと、見て下さい。

興邦  見るのはいいが、此の明りじゃ、君……どれ、ハンカチかなんか出し給え。


 南雲、ハンカチを取り出す。そのはずみに、写真が落ちる


興邦  おや、何か出たぞ。写真だな。どれ……(明りにすかしながら)お、これは君の恋人か?それとも想い人?

南雲  いや、それは——

興邦  何とも蠱惑的じゃあないか。やはり君、死ぬのなど止して——

南雲  それは、僕の師匠ですよ。

興邦  この人が?てっきり、もっと年配だと——これは、若い頃の写真かい?

南雲  いいえ。亡くなる少し前に撮ったものです。齢六十は越えているはずなんですがね。最後の最後まで若々しかった。

興邦  そいつは凄い。まるで、人魚の肉を食べた八尾比丘尼だ。まあ、その手の話は君の方が詳しいだろうが——もう少し早く知り合えていれば、私の研究の糸口になったかもしれないな。

南雲  しかし、死んだ。不老かどうかはいざ知らず、少なくとも不死ではありませんでした。その目は、もう永久に眠っている。その口が、僕の名前を呼んだんです。それが最後でした。その手が僕の手を握ったんです。僕の名前を呼びながら、両手で、僕の手を握りしめるんです。その力が——力が、段々と——


 写真を受け取り、眺める南雲。


南雲  僕はこう見えて、人一倍、物事を考えるたちなんです。この決心をするには、それだけの理由があるんです。

興邦  ……なるほど。確かに君に取っちゃ、生きてることは無意味らしい。そこへ行くと、僕なんかはまだ、問題はこれからなんだ。つまり、僕は、同僚の死の責任を取らないといけないが——唯一の問題は許嫁だ。

南雲  あなた、さっきはきっぱり振ったと——

興邦  確かに振りました。こんな姿ですからね。しかし、自分の存在が、相手の幸福を妨げるという考え——これは自分がそう思つても、相手はそう思っていないかも知れない。(ポケツトから一通の手紙を取り出し)。彼女から届いた手紙の内の一通です——まあ、読んで御覧なさい。

南雲  ええと……(それを受け取る。開いて読もうとするが、よく見えない)

興邦  (手紙を見ずに)「お手紙拝見いたしました。なぜそんなことを仰るんですか?」

南雲  暗記してるんですか?

興邦  僕はセンチメンタルなことは嫌いな男ですがね。その手紙は暗記しています。続けます。「あなたが留学している間、そして戦争が始まって研究所へ行って以降、わたくしは、あなたの御写真を一度も見ませんでした。それは、物を言わない影、心に触れられない姿が、どんなにつまらないものかということを知っていたからです。たとえ容姿が醜く変わりはてようと」——いいですか、これ、私の身に起きたことを知らずに書いてるんですよ——「あなたの姿が私にとって大切なものであるとすれば、それはただ、あなたの心がそこにあるという目印としてなのです」——どうです!?

南雲  実に感心な方ですね、その方は。然(しか)しどんなものですかね。そいつをそのまま受け取るのは。

興邦  え?

南雲  聞いていても胸がつまる。それだけ、その手紙の一句一句には苦しい努力が隠されている。あなたとしては、やっぱりその方を自由にしてあげる義務がありますね。

興邦  いや、あの。

南雲  なるほど、ようやくわかりました——あなたは生きてちゃあいけない!。

興邦  ま、まあ、聞き給えよ。死ねるものなら、とっくに死んでいるさ。しかし、この体はなかなかに厄介でね。怪我を負っても、すぐに回復してしまうんだ。

南雲  するとあなたは、不死の肉体になってしまった、という訳ですか?

興邦  図らずもね。自殺なら、既に様々な方法を試した。しかし、そのたびに失敗した。もはや、線路に飛び込むくらいしないと死ねないと思ったんだ。

南雲  では、どうして飛び込まないんです?

興邦  それだって、確実に死ねるとは限らないだろう!?バラバラになった肉片が、少しずつ地を這って集まって、また融合してしまうかもしれない。いや、それならまだいい。それぞれの肉片から、異なる私が再生される可能性だって——

南雲  やってみないとわからないでしょう?

興邦  簡単に言ってくれるね、君。不死といっても痛覚はあるんだ。僕はね、死ぬのは構わない。しかし、無駄に苦しむのは御免だ。その点、君が羨ましいよ。死のうと思えば、いつでも死ねる。

南雲  え?

興邦  むしろ、君が今日まで生き延びてこれたのが不思議なくらいだ。なんなら、僕が見届け役になってあげましょうか?

南雲  いやいや、見届け役というなら、僕の方が——

興邦  まあそう、遠慮せずに——


 警笛。電車がやってきて、二人の目の前で止まる。


興邦  ……止まりましたね。

南雲  止まりました。

興邦  駅は、まだ少し先なのに。

南雲  そういえば、こんな噂もありました。このどこにも行きつかない路線を走る電車に乗ると、そのままあの世へ連れていかれてしまうと。あるいは「連れて行ってくれる」と言うべきかもしれませんがね。

興邦  随分と、いろいろな噂がある場所だ……何か、乗っていますね。

南雲  ええ。揺らめく影のようなものが、沢山。

興邦  ……君は、どうするんです?

南雲  あなたこそ、どうするんです?なんなら、一緒に乗りますか?

興邦  それは構いませんがね。しかし、やはり君は考え直したらどうです?

南雲  あなたこそ。なんなら、家まで着いていってあげましょうか?


 沈黙。


興邦  (溜息)こうなると命なんていうものは、誰のもんだかわからなくなるね。

南雲  人のものでないことは確かですね。

興邦  (笑って)確かですか、それが。(手紙を広げ)しかし僕はもはや、自分で生き方を選べない。僕は——僕は——

南雲  なるほど——今度こそ、あなたのことがわかりました。

興邦  また軽々しく、そんな言葉を……まあ聞いてあげましょう。何がわかったというんです?

南雲  その前に、幾つか説明しなければならない。まずは一つ目。確かに幽霊や妖怪と呼ばれる者達は存在します。しかし、それはあなたが思っているようなものではありません。

興邦  では、一体何です?

南雲  言うなれば、噂話が広く信じられることで顕在化する、情報の集合体です。師匠は〝あやかし〟と呼んでいた——あなたが働いていた、百八機関(ひゃくはちきかん)でもね。

興邦  き、君——なぜ、その名前を!?

南雲  僕の師匠も戦時中、そこでの研究に関わっていましてね。さて、二つ目ですが。先ほどあなたの睨んだ通り——僕はここに、死にに来たわけではない。あなたを探しに来たのです。とある人に頼まれてね。

興邦  い、一体、誰に?

南雲  それは言えません。そういう約束なので。

興邦  そ、そうか——わかったぞ!研究所に居た、誰かだな!?僕を捕まえて、実験動物にしようっていうんだろう!?誰の差し金だ!?御堂(みどう)教授か!?

南雲  志田さん——

興邦  ま、まさか——百目鬼(どうめき)か!?嫌だ——あ、あの女だけは——

南雲  志田さん、落ち着いてください。

興邦  近寄るなあっ!


 興邦、南雲の首を絞める。呻く南雲。
 その時、ボウ、と炎の燃える音。


興邦  熱っ!?


 興邦、手を離す咳き込む南雲。
 興邦の背後に、着物を着た女の幽霊、千代が現れる。響き渡る千代の笑い声。


千代  どうやら学士様は、荒事には向いていないようですね。

興邦  だ、誰だ!?

千代  人の首とは——こうやって絞めるのです。


 千代、背後から興邦の首を絞める。
 呻く興邦。ゴキッと、骨の折れる音。興邦、倒れる。


南雲  千代さん!

千代  あら——すいません、つい。

南雲  ついじゃありませんよ!殺してしまったら、元も子も——


 興邦、呻きながら立ち上がる。首を両手で掴み、元に戻す興邦。再びゴキッという音。


興邦  貴様——死んだらどうする!?

千代  生きてました。

南雲  不死の体だというのは本当のようですね。良かった。

興邦  何が良かっただ!殺してやる……殺してやるぞ……!

千代  怒らせてしまったようですね。炎で燃やし尽くしましょうか?

南雲  ひょっとしたら効くかもしれませんが——効いたら効いたで、死なれちゃ困る。

千代  難儀ですねえ。

興邦  何をごちゃごちゃと——お前、「燃え盛る洋館の幽霊」だな?化け物には化け物をだ——見ろ、この呪われた体を!


 興邦、右手の手袋を取る。
 しかし、興邦の掲げた右手は、まるっきり普通の手である。


興邦  どうだ、腕から生える、伸縮自在なこの触手——あまりのおぞましさに、声も出ないか!?

南雲  なるほど。あなたには、自分の腕がそのように見えているのですね……ところで志田さん、話の続きですがね。先刻も言った通り、あやかしというのは噂話から生まれる。どこそこの屋敷に幽霊が出るだとか、どこそこの山に天狗が出るだとか、或いは——人体実験に失敗した科学者が、不死の肉体になってしまった、だとかね。

興邦  何?

南雲  あなたと話をしてみて、ほっとしました。化学や黒魔術は専門外だが、どうやらこれは、僕の領分だ。

興邦  何が言いたい!?

南雲  僕の依頼主は熱心な方でね。手を尽くして、あなたのことを調べたらしい。百八機関の関係者まで探し当てて。

興邦  それがどうした!


 触手が伸びる音。見えない触手が、南雲に巻き付く。
 千代、手をかざす。ボウ、という音と共に、一瞬赤く染まる舞台。
 興邦、悲鳴をあげ転げまわる。


南雲  ……はっきり言いましょう。あなたの同僚は確かに死んだ。しかし、黒魔術で体が爆ぜたのではありません。原因は、機械の故障による火事です。

興邦  ……火事?

南雲  はい。同僚はその際、何とか研究資料を持ち出そうとしていたあなたをかばい、崩れた天井に押しつぶされて死んだ。あなたは重傷を負ったものの、彼のおかげで何とか助かった。

興邦  う、嘘だ……

南雲  あなたは自責の念に苛まれた。一方、一部の職員達の間では、こんな噂が流れた。「功を焦った志田興邦は、留学先の独逸で手に入れた黒魔術の書に手を出し、同僚を死なせた挙句、不死の化け物になってしまった」——そんな、カストリ雑誌の三文記事のような物語。

興邦  嘘だ……

南雲  自分は生きていてはいけない。しかし、死にたくはない。死なないでいる理由が欲しい——そうしてあなたは、自ら〝物語〟に呑まれた。

興邦  嘘だ!


 興邦、触手で襲い掛かる。しかしその時には、南雲は包帯をほどき終えている。
 腕には経文さながらにびっしりと書き込まれた文字。
 手には紅で「怪」の一文字。掌には同じく紅で、目を模した文様が描かれている。
 腕を振り、触手を弾く南雲。


南雲  霧が濃くてよかった。触手の動きが目でわかる。

興邦  ぐ、ぐう……

南雲  その体も、最初は本当に醜く変容していたのでしょう。いわば、あなた自身があやかしとなっていた訳だ。しかし、時間と共に噂は廃れる。今となっては、その姿がおぞましく見えるのはあなただけ。先ほど折れた首を治せたのも奇跡だ。いや——それこそが生への執着の証か。

興邦  馬鹿にするな!


 興邦、触手を伸ばす。その触手を掴む南雲。


南雲  力が弱まっていますね——非力な僕でも、この通り(腕を引く)

興邦  うおおっ!


 興邦、よろめき、倒れる。触手を離し、興邦に近づく南雲。


南雲  もうやめましょう、志田さん。

興邦  く、くそう……騙されないぞ……(立ち上がり)口先だけで世の中を渡る怪談師風情が……お前なんかに、俺の何が——

南雲  門倉(かどくら)美代子(みよこ)。

興邦  ——え?

南雲  僕の依頼人は、あなたの許嫁です。

興邦  は?


 南雲、右の掌を、興邦の顔面に突き付ける。
 そのまま仮面を剥ぎような仕草をする南雲。
 べりべり、という音。興邦、憑き物が落ちたように、その場に膝をつく。


南雲  解体完了です。


 興邦、呆然としつつ自分の手を見る。そして、慌てて包帯を外す。傷一つない、普通の男の顔が露わになる。
 自らの顔に震える手をあて、異常がないことを確かめる興邦。


興邦  お……おお……僕の……僕の、顔……

南雲  まあ、放っておいてもいずれは元に戻ったでしょうがね。そうとは知らず、うっかり自殺に成功してしまう可能性もある。少々、荒療治をさせて頂きました。

興邦  彼女が……美代子さんが、あなたに依頼を……?

南雲  ええ。あなたの呪いを解いてくれ、とね。

興邦  彼女は、知っていたのですか?私の、変わり果てた姿のことを?

南雲  あなたは戦後、故郷へ帰らず行方不明になった。彼女はあなたの身を案じ、人を雇って、ずっと行方を探させていたのです。それほど裕福というわけでもないのに——まったく、感心な人だ。

興邦  ええ……彼女は、そういう人です……

南雲  ところがいざ出向いてみると、あなたは再び行方不明となっていた。おまけにこの辺りには、死に魅了された人間の迷い込む、おかしな駅の噂があるときたものだ。幸い僕は、幽霊やらあの世やらを飯のタネにする怪談師——まあ、条件を満たしていると言えなくもない。

興邦  行方不明……僕はもう、どれくらいこの場所に?

南雲  三日です。どうやらこの場所は、時間の流れが普通とは違うようだ。

興邦  三日間も……そうか……そうだった……身投げをしようとしていたら、霧が立ち込めて……

南雲  しかし困った。僕としたことが、うっかり依頼人の名前をこぼしてしまうとは——ついつい口が滑りました。これじゃあ謝礼を受け取るわけにはいかないなあ。

興邦  彼女は、どうして自分のことを秘密に?

南雲  あなたに例の手紙を送ってすぐ、彼女は空襲で、ひどい火傷を負いましてね。

興邦  火傷!?

南雲  ええ。一命は取りとめましたが、顔にはケロイド状の痕が残った。「とてもあなたに合わせる顔がない」と言っていましたよ。

興邦  馬鹿な——何を、馬鹿なことを——私が——私が、そんなことを気にするわけ——嗚呼——(泣き崩れる)

南雲  ……見てください、霧が晴れ始めた。帰りましょう。このままでは浦島太郎だ。

興邦  しかし、彼は——同僚は、私のせいで——

南雲  あなたは、僕なんかよりよっぽど物事を考えるたちのようだ。生きて償う方法を、その秀でた頭で考えるべきでしょう。それに、僕もこう見えて、センチメンタルなことは嫌いな男ですがね——先ほどの言葉は、彼女に直接言ってあげるべきだと思いますよ。

興邦  鶴泉さん……ありがとう……


 興邦、深々と一礼し、その場を去っていく。


千代  口が滑った、ですか——ふふ。

南雲  何か?

千代  いえ、何でも。しかし、今回もまた只働きですねえ。

南雲  そうでもありませんよ。どうやら、この周辺一帯がまるまるあやかしらしい。ふとした瞬間に迷い込む不可思議な駅——思わず誰かに語りたくなる、実に魅力的なモチイフだ。次々と噂が足され、派生していくのも納得です。今後も時代と共に形を変えつつ、長く親しまれる怪談となるかもしれない。

千代  そういえば、そこの駅には看板がありませんでしたね。何か、耳に馴染む駅名が欲しいところ。是非とも素敵な名前をつけてくださいな。私に、千代という名を与えてくれたように。

南雲  そうですね……


 その時、風が吹く。


千代  また一段と寒くなってきましたね。行きましょう、鶴泉さん。風邪をひいてしまいますよ。

南雲  二月……如月……

千代  え?

南雲  節分の時期ということもあり、鬼という字は〝きさらぎ〟とも読む。そして鬼とは元来、死者の霊を意味する言葉。決めましたよ、千代さん。駅の名前は——

女の声  南雲……


 南雲、押し黙る。


千代  鶴泉さん?どうかしました?

南雲  ……すいません。志田さんのことをお願いしてもいいですか。霧が晴れたとはいえ、夜道は危険だ。

千代  それは、構いませんが……

南雲  大丈夫、僕もすぐに行きますので。

千代  わかりました……お気をつけて。


 千代、去る。


女の声  南雲……南雲……

南雲  師匠……

女の声  行かないでおくれ、南雲……お前も早く、この電車に……

南雲  師匠。霊魂というものが実在するのか、僕には本当のところはわかりません。しかし、たとえ本物のあなたがそう望もうと、僕はまだ、そちらへは行けない。兄様がなぜあんなことをしたのか、真実を知るまでは。そして、その罪を償わせるまでは。それにね——僕にも弟子ができたんです。おかしいでしょう、この僕にですよ?まあ、弟子というか、妹弟子というか、いろいろと複雑なんですがね。とにかく、彼女が僕の帰りを待っている。


 南雲、頭を下げる。


南雲  すいません、師匠。たとえ幻だろうと……久々に声が聞けてよかった。


 警笛。電車が走り出す。
 走り去る電車を見送る南雲。


南雲  もしも、あの世というものがあるのなら——いずれ、また会いましょう。


 南雲、電車とは反対に歩き出す。
 
                    ——幕——




※この物語は「怪談~あやかしかたりて~」の続編であり、岸田國士の戯曲「命を弄ぶ男ふたり」を下敷きにしています

「怪談〜あやかしかたりて〜」作:渡辺キョウスケ

「命を弄ぶ男ふたり」作:岸田國士


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