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アルジャーノンに花束を


今日はわたしの一番の

お気に入りの小説を紹介したい。


愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すら引き起こすものである。

『アルジャーノンに花束を』より


『アルジャーノンに花束を』

を読んだことがあるだろうか。

2015年には日本でドラマ化され、

昨年春には映画化もされていたようだ。



この物語は、精神障害を持つ

32歳のチャーリィ・ゴードンが、

アルジャーノンという鼠と共に

人為的な知能の急激増加を伴う実験の

被験体になり、生活を送る物語だ。




最近読んでないなあ、と思ったので

久しぶりに本棚から引っ張り出してみた。

わたしがこの物語と出会ったのは確か中学生の時で、

えらく心に残った記憶がある。



別に物語自体も面白いのだが、

私が好きなところはその文章構成にある。

元々は少ないIQしか持っていなかった青年が、

実験の経過に伴って報告書を書く、

という形で物語は進む。

中盤につれて知能が上がっていくので、

もちろん段々と文章力が上がっていく。


そして、この物語の主人公である

チャーリィ・ゴードンは作中でこう言った。

人為的に誘発された知能は、その増大料に比例する速度で低下する。

『アルジャーノンに花束を』より


チャーリィの脳味噌は自然なものではなく、

元々持っていなかった知能を人為的、

かつ強制的に増大させられた。

そしてその知能は物語の終盤で失墜してしまう。



まさに人生そのものだとは思わないだろうか。

わたしたちは生まれて5年ほど低い知能で生活し、

半強制的に知識を叩き込まれ、

そして老いてくると今度はアルツハイマー病など、

まあ、なんらかの原因をもって忘れっぽくなる。

認知症の老人は子どもの頃のことは覚えている、

と聞いたことがある。


チャーリーはそれを僅か32歳で全て経験して、

最後にはすべてに嫌気が差したような様子であった。

最初から最後まで、根底にあるものは一致している。

チャーリィは優しい人間だ。



知能が増加すればするほど、

愛情を受け入れようとする気がなくなってしまう。

現代の日本人は、教育が行き届いており

読み書きができない、なんて人は類稀である。

だけど、生きづらい。わたしもそうだ。


以前ちょろっと話したかもしれないが、

わたしは人並には学があるつもりだ。

生きづらくなり始めたのは14歳ごろ、思春期である。

医学的にはホルモンの影響で

思春期が訪れるとのことだが、

わたしは、それまでとは違った膨大な知識を

毎日脳みそに叩き込みつつ、

コミュニケーションも円滑にしなければならない

窮屈な環境に置かれるからだ、と思っている。


別にそれ自体を否定しているわけではない。

ただ、窮屈な世界の中で忙しく生活していると

愛情を求める事が困難になってしまう。

時間がない。どうせ無駄。恥ずかしい。

色々理由はあるはずだ。

そもそも心を許せる人がいない、とか。

わたしはこれでも中学生の頃の成績は

まあまあ良かったのだが、

“人に頼る”という一番大事なことをしてこなかった。

無駄に知能があると(わたしは国語が一番得意だった)

想像力で、気を使う未来を考えてしまうから。



何も知らないあの頃のほうが良かった、というのは

よく耳にするのではないか。

これは言い得て妙である。

あの頃できなかったことは今はできている。

今できなかったとしても、昔はできていた。

結局ないものねだりなのだ。


これの小説の著者であるダニエル・キイス氏は、

チャーリィと自分を重ねて執筆していたらしい。

不思議なことに、この小説を読んだ

世界各国の人たちが、チャーリィが

自分を重ね合っているという感覚に陥ったのだと。

すなわち、知能が高いゆえに孤独である人、

精神障害を持っていて、愛情を求めている人が

この著書に集まって来ていたそうだ。

わたしもその一人である。光栄だ。




気になったらぜひ読んでみてください。

名作なのでどこの本屋にも置いてあります

持っているだけで勇気をくれる本ですね。




では今夜もおやすみなさい。良い夢を。

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