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おとなとこどもの狭間で



あの頃憧れていた年になって思うこと

わたしは2004年生まれなので、

年齢的には立派な大人といえる。

もっと言うと、2年前には選挙権を得ていたし、

すでに“成人”のくくりに入っていた。


法律からタバコと酒を窘むことを許されたので、

一通り試してみた。酒は好きになったが、

タバコはどうしても慣れない。

酒を飲みながらタバコを吸うと、

高確率で二日酔いになる。

選挙は複雑すぎてよくわからない。


二日酔い、あれは地獄だ。

二日酔いとか悠長な名前をつけたのは何処のどいつだ。

あんなの二日狂いだ。

どこかのYouTuberが「二日酔いVlog♡」と称して

動画を取っていたが、

あんなに可愛く起床できる彼女らには

尊敬を超えて畏怖の念すら抱く。

本当になんのはなしですか。


話が逸れた。

酒を飲んだ日は、よく大人の定義とはなんぞや、

というのを考える。

酔っぱらいの戯言をまとめただけなので、

そこはかとなく中二臭が漂うであろうが、

どうぞ生温かい目でご覧になってほしい。


わたしは多分昔、

同世代よりも精神年齢が大人びている方だった。

周りと時分を比べては「わたしのほうがおとなだな」

と優越感に浸ることで自己肯定をしていた、

高飛車なくせに幼稚なクソガキであった。


そんなわたしが中学生、高校生を過ごすとともに

ズタボロになっていったのは言うまでもない。

子どものころは、見ている世界が狭すぎたのだ。

この広大な社会を、世界を、宇宙を、知らなかった。



無知の知

こんな思想がある。

高校の社会科目をちゃんと受けていたら、

ピンとくる人も多いのではないか?

I know that I know nothing.

I cannot teach anybody anything. I can only make them think.

Socrates

「私は“私が何も知らないということ”を知っている。

私は誰かに何も教えることができない。

私が彼らにできることは、考えさせることのみだ。」

と古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは言った。


彼の思想に基づき、

日本人は「無知の知」という言葉を生み出した。

要約すると、

「自分が無知であるということを知る、ということは

とても難しい」ということだ。


確かにわたしも、自分の無知を自覚するまでに

おおよそ10年弱の時間を要した。

今改めて振り返ると、幼き頃の愚かなわたしは、

世の中のことは全て自分を中心に回っている、

と本気で思っていた節があった。


本当に嫌なガキである。

当時のわたしを知っている人には、

恥ずかしすぎて正直会いたくない。

両親もこいつを育て上げるのは大変だっただろう。

しかも、この年になってもまだ親の言うことに

ネチネチと反抗することがあるので、

わたしがわたしの親だったら

正直たまったものではない。


かと言って、あの頃がすべて間違っていたのか、

と問われればそうではない。

幼き頃のわたしは、何も知らないが故に無敵だった。

自分に向けられる悪意はすべて

自分でどうにかできると思っていたし、

立ちはだかる困難には猪も驚愕して腰を抜かす勢いで

猛進していき、壁が破れないとそそくさと逃げ、

今度は別の壁に体当りしに行っていた。



突き進めたあの頃

自分なりになにかを模索していたのかもしれない。

頼れるはずの父親が単身赴任で家におらず、

定期的に病んで家事ボイコットを起こす母親と、

わたしのことを目の敵にしていた姉

(今は優しくて仲がいい)との

三人暮らしをしていた5~6年の中で、

愛情を受け取ったと感じたことは、

記憶の限りではあまり無い。


愛情を求めてというのは少し違う。

心安らげる場所を探していたのだ、多分。

昔も今も、結局はわたしだけの居場所が欲しいのだ。


臆病だけど怖いもの知らずだったわたしは、

自分のほしいものが何なのかはっきり分かっていた。

そして、無知ゆえに突き進むことができた。

それは、ある種自分への救いだった。


大人になるということ

じゃあ、この年になったわたしには、

わたしの理想の居場所は無いのか?

と自問自答してみると、

割とそうでもないことに気がつく。


成人らしく飲みに行く友人も、

童心を忘れずラウンドワンなどに遊びに行く友人も、

誕生日プレゼントを交換する友人も、

大切なコミュニティの中に、大切な友人が

少なからず存在してくれているのは確かだ。

(↓の記事はその中に含まれるありがたい人たち。)


これはわたしが追い求めずとも、

わたしというバカみたいに面倒くさい存在と

「友だちでいたい」と思ってくれた、

物好きで非常にありがたい人たちが

わたしの手を取ってくれたから叶ったことである。


いつからか、

学校の廊下で会うたびに話し込んでいた彼女とは、

わざわざコンタクトを取って会うこともなくなった。

そういえば部活が一緒だった彼も、

今何をしているのか全く知らない、と今思った。

大人とは、そういうものなのかもしれない。



結論

知らなくても、知らないことに気づき、

それを受け入れる。

そして、知らないことを一所懸命に知ろうとする。

それが大人になるということなのではないか。


決して驕らず、あくまで謙虚な姿勢で、

知らないことを悪いことだと思わない。

知らないからこそ、腹が立つ。

知らないからこそ、悲しい。

知らないからこそ楽しいこともあるし、

嬉しいこともある。

でも、「自分はなぜ怒っているのか?」、

「なぜこんなに悲しいのか?」、と

自問自答することは大変重要なことだと考えている。

あくまでソクラテスとわたしはだが。


「無知の知」を知らない人が

「知らないほうが幸せなこともある」

なんて言っているのを聞くと、

この世の真理はやはり1つだけなのだろうか、

なんて気もしてくる。

まあこれはどうでもいい。


最近、わたしは世の中のことをなにも知らないなんて

嘆いていたが、そう思えたことが

1つの成長だったのだな、と振り返って思う。

ソクラテス、様々である。



なんてつらつらと語ってみたわけだが、

正直わたしは社会の授業が一番嫌いだったので、

哲学は好きなくせに哲学者のことはあまり知らない。

当時の社会科担当の先生方、ごめん。

哲学の本、読んでみようか。

読み終わって面白かったら、誰の何を読んだか、

感想をnoteに書きます。


ここまで長々と思想を垂れ流した、

まだまだ子どもと大人の間で揺れている人間に

お付き合いいただいてありがとうございました。



それでは今日はこの辺で。
おやすみなさい。いい夢を。

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