わたしたち2世は「がんばってきた」のか
最近、元エホバの証人の方のSNS投稿を見て
「そうだったな」
と思うところがあったので、記事を書く。
それは
『がんばってきた人が多い』
という内容だった。
わたし自身、人から「頑張りすぎないで!」と
言われることもあったので、
「えっ;そうなの…?」と思うところもあったのだが、
2世の方が、そう記していたのを見て、改めて実感した。
わたしたちはがんばってきた。
…というか、わたしの場合は、がんばらざるを得なかったという方が正しいかもしれない。
こどもの頃も、大人になってからも…がんばっていたという自覚すらなかった。
ただ目の前のことを必死にこなしてきただけだ。
両親、周りの人、組織の世界がすべてだった。
その世界の情報しかない。
幼稚園はいっていない。
残された写真を見る限り、ベビーカーのころから奉仕(布教活動)に連れられている。
実際に自分で証言(一般の方に布教活動をすること)を始めたのも、小学校前だったはずだ。
一軒一軒、家を周っていた。飛び込み営業みたいなものだ。
本当の自分でいれる隙間はそこになかった。
きれいな服装で身を包み、ニコニコしながら布教活動のため家を周る。
毎朝、日々の聖句(※1)を読み、
集会(※2)で注解(※3)するために事前勉強する。
集会中はどんなに幼くても、じっとおとなしくしている。
それをしていたモチベーションは、
「その世界で生きていくため」
「叩かれるのを避けるため」
主にその2つだったと思う。
周りに溶け込んで、気持ちよく生きていくためには、
うち叩かれるのを避けるためには、
イイ子を装って、ニコニコしていた方がよかったのだ。
わたしはよく集会中、自分を乖離させていた。
ぼーっとして、意識を飛ばす。
そうすると、一瞬
「あれ?自分って誰なんだっけ?ここってどこだっけ?」
と、すべての記憶が飛ぶ。
しばらくすると、戻ってくるのだが、
その感覚が面白くて何度もその遊びをやっていた。
普通の人からすると、こういう経験は「とってもがんばってきた」と言われるものなのだろうか?
「がんばってきたんだ」と自分で言うと、小さい自分が、ワッと泣いてしまいそうで怖い。
ということは、自分にとってはそれが答えなんだろう。