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『母性』考察

映画『母性』を観てから1週間以上経った。

私の頭の中は未だ『母性』の考察でぐるぐるぐるぐるしている。

TVerで『流星の絆』を観て、「戸田恵梨香、可愛い…可愛すぎる…なにこの可愛さ。反則すぎる…」と思いながらも頭の片隅に『母性』が思い出されてぐるぐるぐるぐる。

この戸田恵梨香が、あの戸田恵梨香になるのか…凄いな…ぐるぐるぐるぐる。

そのぐるぐるの思いをここに書きたいと思う。
いわゆる『映画感想文』です🤗


ネタバレ含みます。

これから『母性』を観に行こうと思っている方は、そっと閉じてください。



映画を観る前の考察

春頃、友だちから「湊かなえの『母性』を映画でやるんだって。出演が戸田恵梨香、永野芽郁だってよ」と聞いて、それだけで、私は「絶対、観に行く!」と言った。


予告を観ると、さらに観たい意欲は湧いた。

「母と娘、2つの異なる証言で物語は180度逆転する」
「愛してる」と言って首を絞める戸田恵梨香。
「何をすれば母は愛してくれるのだろうか」という永野芽郁。


それらの少ない情報から私は映画を観に行くまで考察していた。

それは、誰が犯人とかそういうことではなく。

愛の出し方、愛の受け止め方、愛の求め方、愛の感じ方、それらのズレが招いた、親子の悲劇の物語なのではないか?とか。

これはミステリーと言うより愛の物語なんじゃないか?とか私は色々考えていた。

映画を観ながらの考察


映画を観ながら私の中ではモヤモヤ、ザワザワしていた。

戸田恵梨香さん演じる母ルミ子。
彼女は、母親からの愛情という名の呪縛を受け、それが故に我が子を愛せないのかと私は勝手に想像していた。

そして、最後にはその呪縛があったことに気づき、自分が間違っていたと考え直すものだと私は思っていた。


母ルミ子は、守られることが愛だと思っていたのではないだろうか。
そして、母の想いに応えることこそが愛だと思っていたように思う。

母親から褒められること、母親が求めていることに応えようとして、そして愛されてきた。
だから、永野芽郁ちゃん演じる娘さやかにも同じように、人の求めているものに重点を置いて、察しながら生きて欲しいと願っていたのかもしれない。
それがルミ子の愛の形だから。


ルミ子は、なぜ、母親の感性と同じであるべきという思いになっていたのか。
なぜ、母親から褒められること、母親が求めていることに応えようとしていたのか…。

ルミ子は『私は母の分身なのだから、同じものを見て違う思いを抱くなど、あってはならないこと』とまで言っている。


昨今、褒めて伸ばそうというように、ダメなところを指摘して直すよりも、良いところを褒めて、そこを伸ばすやり方が主流になりつつある。

私も昭和の根性論より、褒めて伸ばすやり方には賛成だ。
だけど、この褒めて伸ばすというやり方も一歩間違えると危険を伴う。

時に、相手を褒める行為は、相手を自分の思惑通りにしたいという支配のため、呪いをかけるために利用されることもある。
使い方によっては呪縛となるのだ。

それは、意図していることもあるし、意図していないこともある。

ルミ子の母親は、どちらだったのだろうか…。

「あなたは太陽のような子だから」
「あなたに出来ないわけないわ」
「お母さんは嬉しいわ」
「あなたは出来る子よ」
「やっぱり凄いわ」

この言葉を聞き、力を与えてくれ、自己肯定感を高めることにもなる。
だけど、一歩間違えば、出来なかった時の自分には価値がないものと思ってしまうことにもなる。ありのままの自分ではダメなのかもしれないという不安をもたらすかもしれない。
出来ない自分、期待に添えない自分は、愛されるに値しないという呪文のような言葉になってしまう。

ルミ子のお母さんの感想や価値観が、ルミ子そのものの考え方と価値観になってしまう。

ルミ子自身どうしたいのか、どう思っているのかを考えるよりもどうしたら母親が喜んでくれるのか、どういう振る舞いが母親にとってベストなのか、基準は全て母親にあった。

ルミ子には自分軸はなく、他人軸で生きている。
母軸と言った方が正しいかもしれない。

それはなぜだろうか…。

人は成長する過程で、2、3歳頃、第一次反抗期で自我の目覚めがあり、10歳前後で、10歳の壁と言われる壁があり、他者との違いに戸惑う。
そして、14、5歳で第二次反抗期を迎え、親と自分は違うということを知り、苛立ちを覚え、自分を形成していく。

多少の個人差はあるものの、概ねこんな感じで成長し、他人と自分、親と自分は、違う人物なんだということを知り、自立していくものだと思う。

けれど、ルミ子にはそれがなかったのではないだろうか。

母の喜ぶ顔が見たいがために。
母を悲しませないために。
母から自分の求める言葉をもらうために。

必要以上に空気を読みすぎたのではないだろうか。

そこに重点を置きすぎて、ルミ子は自立しないまま大人になり、母親になってしまったのかもしれない。

母性

そもそも母性とはなんなのか。
母性は、もともと全員に備え付けられているものなのだろうか。


私は、自分には母性があると思っていた。

小中学生の頃は、保育士さんになりたかったくらい子どもが好きだったし、私に14歳年下の妹が生まれた時には、可愛くて、可愛くて仕方がなかった。
目に入れても痛くないほど可愛がった。

だから自分は子供が好きなんだと思っていたし、母性があるものだと思っていた。

子どもが生まれたら私は、子どもを溺愛してしまうかもしれないと思っていた。

ところが、娘が生まれた時、妹が生まれた時とは全く違う感情が生まれた。

可愛くてメロメロとか、溺愛なんてものを味わう暇はなかったように思う。

可愛いと思うよりも守らなければこの子は死んでしまうのではないかと思った。
そして、怖かった。
自分で大丈夫だろうかという不安もあり、責任感に押しつぶされそうになった。

今思えばそれは、ホルモンの影響だったのかもしれない。

我が子なのに可愛くないと思うこともあったし、思うように子育て出来ず、親としての自信もなく、守りきれない弱い自分とも出会い、落ち込むことも多々あった。


母性とは無償の愛と慈悲の心ではないだろうか。

生まれた時には、無事に生まれてくれたこと、私の元にやってきてくれたことへの感謝があった。そのままでいいよとも思っていた。

そう思っていたのに、大きくなるにつれ、周りと比べたり、成長の中でもっとこうなって欲しいなど欲が出るようになっていった。

条件付きで愛を出していたこともあったかもしれない。

私には、慈悲の心が欠けていると思っていた。

子供を産んでも遊びたい、飲みに行きたい、自分の時間が欲しい。
そんなふうに考えるのは、自分に母性が足りないのではないか、そんなことを考えたこともあった。

子供を産んだら、誰しもが母性がドバドバ出るというわけではないと私は思う。

成長の中で自分を形成し、そのままの自分を許し、愛していく。
そうしていく中で、人を許し、愛していく。
その中で母性というものが形成されていくのかもしれない。

愛のズレ

例えば、娘がまだ小さな子どもだとする。
その娘が転んだとき、どうするか。

自立して欲しくて、手を貸さず、自分で歩き出せるように見守るとする。

自分で起き上がり、自分で砂を祓い、泣かずに頑張れと願っていたとしてもそれは娘に伝わらないのかもしれない。

娘の目から見たら、転んだのに駆け寄ってきてくれない非情な母に見えるかもしれない。

娘からは母親からただ放置しているようにしか思えず「自分は愛されてない」と感じてしまうかもしれない。

ここに、母と子のズレが生まれ、景色が違って見える要因があるように思う。

心は見えないから。

ダンナのお母さん、通称ばあばは、何でもやってあげる傾向がある。

娘が靴を脱げば、ばあばがサッと靴を片付ける。
上着を脱げば、ばあばがサッとハンガーに掛ける。

何か欲しいものがある時には、娘の口から言う前に察して「あれ欲しいか?」「これ欲しいか?」と、サッと差し出す。

肉が硬いと娘が言えば、ばあばが噛み砕いてあげる勢いだ。
まぁ、実際にはそんなことはせず、小さく箸や包丁で切ってあげるのだけど…。


至れり尽くせりなのだ。

娘もそれで満足している。

つまり需要と供給が成立している。


私は一生娘の欲しがる愛の形を出すことは出来ないと思っていた。

なんでもやってあげる、希望を叶えてあげるという思いは私にはなかったから。

話を映画『母性』に戻そう。

需要と供給で考えてみれば、ルミ子とルミ子の母は需要と供給が成立していたのだと思う。

しかし、ルミ子とさやかは需要と供給が成立しなかった。

売りたいものと買いたいものが合っていなかった。
ここが合っていなかったから、そこに愛がないとお互いに思ってしまったのかもしれない。


映画では、同じシーンなのに、ルミ子からの視点とさやかからの視点で違う場面がよくあった。

ルミ子がお弁当を落とすシーンもルミ子の中では、ショックで落としてしまった風に映っていたけど、さやかの目からは、わざと落としているように映していた。

それにしても戸田恵梨香さんの表情、演技がいい!
大袈裟すぎず、ほんの少し変えて、それでいて、こちら側にザワッとさせてくれる。


演技といえば、高畑淳子さんの口の悪い義母も凄かった。
圧巻だ。


真実

母と娘、どちらが正しいことを言っているのか。

私はどちらも正しいことを言っていると思う。

人は見たいものしか見ない。

娘さやかは、母を守ろうとした。
その守ろうとした形が、ルミ子にとって理解できないこと…つまり見えないものだったのだ。


ルミ子は、ルミ子の見える世界で物事を見ていた。

ルミ子には、美しい家という理想の家があった。
ルミ子の中で『花の咲き乱れた庭があり、可愛い家で、キラキラ輝くような家』が美しい家であり、理想の家だったのだ。
そんな外側の世界。

ルミ子は、自分の心と向き合ってこなかった分、体裁という外側の世界で愛を貫いていたように思う。

自分の中では、娘を愛していた。
それが条件付きの愛であったとしても。

娘を愛する母という姿を母に見てもらい、褒めてもらうために。


娘の死を前にしてもなお、ルミ子の解釈は違っていたように思える。

なぜ首を吊るほどまでにさやかが苦しんだのか。
さやかの苦しみ、思いは母には伝わることはないのかもしれない。

映画を見終えて…

映画を見終えた後、私はすぐに本屋さんで小説を買った。
それは、映画では描ききれなかった思いが小説にはあるのかもしれないと思ったからだ。

今私は小説を途中まで読み、読み終えていない。

この読み終えていない中で映画『母性』の感想を書きたいと思っていた。

ぐるぐるぐるぐるしちゃっているこの思いを書き綴りたかった。

「母性とはこうである」とは言い切れない。

予告で『物語は、あなたの証言で完結する』と言っているけど、全然完結しない。

色々と他にもこんな解釈があるのかな?なんてことを思って、まだまだぐるぐるぐるぐるしちゃう。

私の解釈、感想は、小説を読み終えたらまた変わるかもしれない。


最後までお読みいただきありがとうございます😊


幸せをありがとうございます💖
心に愛を💕

うちなる平和を💕
シュカポン🐼







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