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人を切り捨てるのは簡単
両眼に乱視があるので
夜空に浮かぶ月が、分身の術でダブって見え
メガネをかけないと、他人と同じ月が分かりづらい
先日、noteやtwitterで
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こちらの詩を取り上げる方々を見た
なんだか、この方々とわたしは分かり合える
そんな錯覚を起こし
『同じ月』が見える人に思えた
中でも、こちらの詩をツイートした友達は
「石垣りんさんの“表札”という詩が好きで
これは、茨木のり子さんの
”自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ”と
似た緯度をもっているような」
更に言えば、坂口安吾の“堕落論”の一部
「救いがないこと自体が救いだ」の
言葉に救われているところまで、一致して
わたしと1ミリのズレもない感性は
泣きたくなるくらい、嬉しい
ずっとずっと、中学生の頃から思っていて
人と分かり合えなかったのが、歯痒く
わたしだけが、分身の術をした月を見ているような
>さみしさを耐えてみて
得た、今日に思えた
「同じ言語を話す人」に出会えた感激が押し寄せ
これを書いている今でも、胸が熱くなる
それくらい、他人とは分かり合えないもの
だからと言って
他人と分かり合えないから、すぐに縁を切るのは
とても惜しいことをしている
分かり合えなくとも、相手の存在を受け入れ
互いを敬うことができる
むしろ、頻繁に互いが分かり合えるよう
価値観や文化を統一してしまうと
個性や多様化もない、浅く貧弱な世の中になる
自分と分かり合える人は貴重な価値があり
分かり合えないなら
他人を理解する努力は継続していく
あとは、共感力などと持て囃されているが
大事なのは『分かる』ことではなく
「変わっていくこと」
今日より進歩した、明日の自分を迎えること
分かり合えない人を切り捨てるのは簡単だ
歩み寄りや折り合いをつけようともせず
他人を解ろうとせず
次から次へと、稀少な分かり合う人を探すより
自分を高め合う人を探してみればいい
特殊な気質じゃない限り
他人のことは分からないし
自分も他人も変わっていくのが、常なのよ