副汐健宇の戯曲易珍道中⑬~チェーホフ『桜の園』~
前回から大変お待たせし過ぎました。大変お待たせし過ぎてしまったかも知れません。
まさに、大きな流れに従い、あるがまま、雷が沢中に伏して時に従う、
沢雷随(たくらいずい)
☱
☳
の爻辞のままに、怠惰を極めていた!と突っ込まれても返す言葉はありません。私は、時の流れに従い、それなりに充実しているかも知れませんが、
周囲から私を見た図・・・・・・沢雷髄を錯卦(卦を逆にする)にしますと、
山風蠱(さんぷうこ)
☶
☴
”象に曰く、山下に風あるは蠱なり。君子用て民を振(すく)い徳を育(やしな)う。”
家(☶)の下に生温かい風(☴)が吹き、物事が根底から腐乱、腐敗して行く・・・
と、微細な戦慄を覚えた次第で、重い腰をようやく立ち上げた訳であります。
・・・なら、いっそ、その”山風蠱”を全面に見据えたテーマにしようと、流れに従い(沢雷随!)、
山風蠱の状況を、一番言い当てている戯曲は?と思いを馳せた所、やはり、こちらの・・・・・・
チェーホフ『桜の園』 神西清:訳
(新潮文庫)
に、思い当たった次第です。
急変して行く周囲の現実に、自ら積極的に対応しようとせず、まさに、現状のまま、流れに身を任せた結果・・・
原作だけでなく、昨年8月、東京渋谷のPARCO劇場で実際に生身の俳優さん達で上演され、改めて、立体的に、原作では見つからなかった得体の知れない”現実の恐怖”が、押し寄せて来た、私自身の現実とも否応無しに照らし合わせてしまう、意義深い観劇体験をさせて頂きました。そのレポートは別の機会に譲るとしまして、改めまして、今回は、敢えて新潮文庫の、神西清氏の紡がれる戯曲語、から、立ち上がってきた、私なりの”周易的感性”をお伝えさせて頂けたらと思います。
『桜の園』主要人物
ラネーフスカヤ・・・女地主
アーニャ・・・その娘。17歳
ワーリャ・・・その養女。24歳
ガーエフ・・・ラネーフスカヤの兄
ロパーヒン・・・商人
トロフィーモフ・・・大学生
ピーシチク・・・地主
フィールス・・・老僕。87歳
主人公・ラネーフスカヤの自宅『桜の園』は借財のカタで売りに出され、競売の日も決まっている。ロパーヒンは、『桜の園』を別荘向きの地所に分割して貸すようにすれば問題無いと提言するが、かつての華やかな栄華が忘れられないラネーフスカヤは全く聞く耳を持たず、その結果、『桜の園』は・・・
というのが大まかな筋です。
■第一幕 28ページより引用
ラネーフスカヤ 伐り払うですって? まあ、あなた、なんにもご存じ な
いのねえ。この県のうちで、何かしらちっとは増しな、それどころかすば
らしいものがあるとすれば、それはうちの桜の園だけですよ。
ロパーヒン そのすばらしいというのも、結局はただだだっぴろいだけ
の話です。桜んぼは二年に一回なるだけだし、それだって、やり場がない じゃありませんか。誰ひとり買手がないのでね。
ガーエフ 『百科事典』にだって、この庭のことは出ている。
ロパーヒン (時計をのぞいて)これといった思案も浮かばず、なんの結論
も出ないとなると、八月の二十二日には、桜の園はむろんのこと、領地す
っかり、競売に出てしまうのですよ。思いっきりが肝腎です! ほかに打
つ手はありません。ほんとです。ないとなったら、ないのですから。
↑ こうした観点で見ますと、ロパーヒンは、東洋から送り込まれた易者と断じても過言ではない筈です。これ程の的確な占いが出来る人物、そして、それを相手にしない主人公・・・・・・占術に携わる者としまして、一種のむずがゆさを感じた次第です。そのむずがゆさを提供する原因は、山風蠱(☶☴)で、皿を這う虫、なのでしょうか。
※まさに、”蠱”という漢字の字源ですね。
■第二幕 64ページより引用
トロフィーモフ 人類は、しだいに自己の力を失いつつ、進歩して行きま
す。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易いものに
なるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探求す
る人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。
↑ こちらのトロフィーモフの熱にまみれた、熱だらけのセリフ、否、予言は、まさに、山風蠱(☶☴)からの脱却を促していると言えそうです。いや、もしくは、山風蠱の上九
”王侯に仕(つか)えず。其の事を高尚にす。”
孤高の隠者となり、己を高尚にする事だけに努めよ!という扇動でしょうか?そうした所で、山風蠱の蠱からは逃れられない訳ですが・・・・・・
■第二幕 66~67ページより引用
ガーエフ (低い声で、朗読口調で)おお、自然よ、霊妙なるものよ、おん
みは不滅の光明に輝く。われらが母と仰ぐ、美しく冷やかなおんみは、お
のれのうちに生と死を結び合わす。おんみは物みなを生み、物みなを滅ぼ
す。・・・・・・
みんな坐って、物思いに沈む。静寂。聞えるのは、フィールスの小声の
つぶやきばかり。不意にはるか遠くで、まるで天かたひびいたような物
音がする。それは弦の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。
ラネーフスカヤ なんだろう、あれは?
(省略)
ガーエフ もしかすると、何か鳥が舞いおりたのかも知れん・・・・・・蒼
サギか何かが。・・・・・・
トロフィーモフ それとも、大ミミズクかな・・・・・・
ラネーフスカヤ (身ぶるいして)なんだか厭な気持。
静寂を仄かに掻き消した音の持ち主は? トロフィーモフは、大ミミズクと大胆な予言をして、ラネーフスカヤを身震いさせた訳ですが・・・・・・ミミズク、まさに、山風蠱!腐敗させる虫の別名、ミミズク、という訳でしょうか。
■第二幕 68~69ページより引用
トロフィーモフ 誰か来る。
浮浪人が出てくる。古ぼけたヒサシ帽をかぶり、外套をまとい、少し
酔っている。
浮浪人 ちょっとお尋ねしますが、ここをまっすぐ、停車場から出られます
かね?
ガーエフ 出られますよ。その道をお行きなさい。
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります。(咳ばらいをして)まことによいお天
気で・・・・・・(朗読する)はらからよ、苦しみ悩むはらからよ。・・
・・・・出でてみよ、ヴォルガのほとり、聞ゆるは誰の呻きぞ。・・・・
・・(ワーリャに)マドモワゼル、この飢えたるロシアの民に、三十コペ
イカほどどうぞ・・・・・・
(省略)
ラネーフスカヤ (怖気づいて)持ってらっしゃい・・・・・・さあ、これ
を・・・・・・(巾着の中をさがす)銀貨がないわ。・・・・・・まあい
い、さ、この金貨を・・・・・・
浮浪人 ご親切に、おそれ入ります! (退場)
↑ 原作では、ラネーフスカヤの愛情深さ、もしくは思慮の浅さ、もしくは、世間知らずのお人好さがますます浮き彫りになるエピソードの一つと歯牙にもかけなかったシーンなのですが、昨年8月の舞台では、浮浪人を演じられた方が、いわゆるパリピ?のようないで立ちのアクティブな人物として描かれ、ラネーフスカヤ達と浮浪人との間に鉄柵が用意され、あちら側とこちら側、という演出が見事に可視化されていました。一気に「桜の園」が立体的に立ち上がって来たシーンの一つとして記憶されています。こちらのシーンを、無理くりに六十四卦に当てはめますと、
ラネーフスカヤの心理に焦点を当てますと、否応無しに浮かび上がって来る卦、爻は
山沢損の六三
(さんたくそん)
☶
☱
『象に曰く、損は下を損して上に益し、其の道上行す。』
内卦の三爻の陽爻を損して外卦の上爻に益す、自らを損して他人に与える、益す、という意味合いの卦で、まさに、ラネーフスカヤは山沢損の三爻を見事に体現したと断じても過言では無いでしょう。
三爻の爻辞は
『六三は、三人行けば一人を損す。一人行けばその友を得。』
三人、というのは、こちらのシーンでは当てはまらないかも知れません、しかし、人物では無く、過去、現在、未来、を三人と当てはめてみたら、無理くりでも何かが見えて来るかも知れません。はてさて、損すのは、過去か、現在か、未来か、それとも・・・・・・。
■第三幕 75ページより引用
アーチで奥の広間と区切られた客間。シャンデリアがともっている。
↑ このたった1行ですが、私は脊髄反射的に、
天火同人の六二
(てんかどうじん)
☰
☲
『六二は、人に同じうするに宗(そう)に於いてす。咎なし。』
爻辞を大まかに訳しますと、宗教の宗である、宗とは、血統、という意味を孕んでいますが、実際の血統に限らず、気の合う者だけで固まり、外部との交際を果たし得ないので、余り良い交際では無い、という意味合いが含まれています。まさに、ラネーフスカヤの心理を仄かに、丹念に照らしたシャンデリアといっても過言では無いでしょう。
■第三幕 78ページより引用
ラフネースカヤとシャルロッタ登場。
ラネーフスカヤ (コーカサスの舞曲を口ずさむ)レオニードは、どうして
こう遅いのだろう? 町で何をしているのかしら? (ドゥニャーシャ
に)ドゥニャーシャ、楽隊の人にお茶をあげて・・・・・・
トロフィーモフ 競売はお流れになったんですよ、きっとそうです。
ラネーフスカヤ 楽隊来たのも折が悪かったし、舞踏会も生憎の時に開いた
ものだわ。・・・・・・まあ、いいさ。・・・・・・(腰かけて、そっと
口ずさむ)
シャルロッタ (ピーシチクにカードを一組わたす)さあ、カードを一組あ
げましたよ。どれか一枚だけ、頭のなかで考えてください。
↑ 易学関連のこちらのnoteにとっては余談になってしまいますが、シャルロッタがピーシチクに渡した一組のカードは、トランプでしょうか?措置れとも、トランプに起源を見出せる、タロットカードでしょうか?ピーシチクが考えたカードは、ハートのエースでしょうか?それとも、タロットの”っ愚者”でしょうか?”運命の輪”でしょうか?それとも”吊るされた男”でしょうか?・・・身勝手に連想を膨らませてしまいます。
■第三幕 84ページより引用
トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいとーー同じことじゃありま
せんか? あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻りません
ん、昔の夢ですよ。気を落ちつけてください、奥さん。いつまでも自分を
ごまかしていずに、せめて一生でも一度でも、真実をまともに見ることで
す。
ラネーフスカヤ 真実をねえ? そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウ
ソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか眼が霞んでしま
ったみたいで、何一つ見えないの。(省略)
↑
かつて、「太陽と真実はまともに見る事が出来ない」と言っていた哲学者がいたとかいないとか・・・真実を勇気を出してまともに見据える事を勧めるトロフィーモフに、眼が霞んで何一つ見えないと嘯くラネーフスカヤ、この二人のやり取りは、まさに
山水蒙の六三
(さんすいもう)
☶
☵
『蒙は亨る。我より童蒙に求むるにあらず。』
『象に曰く、蒙は山下に険あり。』
険阻を目前に控えて踏み止まっている卦です。行く方向性が定まらない。
その中で、三爻は、大きな離(☲)の中にある爻でもあります。
離=太陽・・・・・・まさに、険阻の中でもしっかり真実を見据える(☲)事を勧めるトロフィーモフに、眼がくらむとはぐらかすラネーフスカヤ、三爻は、内卦から外卦への架け橋、カオスな部分、分岐点でもあります。外卦を見据えようと迫るトロフィーモフに、内卦にくるまったままのラネーフスカヤ、どちらが正しいのか・・・・・・
答えは多様性よろしく人それぞれですが、ヒントとしましては、山水蒙の六三の陰爻を陽爻に変えて、之卦を見ますと、山風蠱(☶☴)である、というのがあります・・・・・・。
※しかも、領地=不動産=五行ですと土行=艮(☶)
■第三幕 87ページより引用
ラネーフスカヤ いや、いや、それを言わないで・・・・・・(両耳をふさ
ぐ)
トロフィーモフ あいつは碌(ろく)でなしです。それを知らないのはあな
だけだ! あいつはケチなやくざ野郎で、虫けらみたいな・・・・・・
ラネーフスカヤ (ムッとするが、じっとこらえて)あなたは二十六か七の
はずね。だのに、まるで中学の二年生みたい!
トロフィーモフ かまやしません!
↑ ついに、トロフィーモフから、直接的に、「虫」というセンテンスが出されました。虫けらも虫も同じようなものでしょう(暴論でしょうか💦)
まさに、ラネーフスカヤの状況、心理は山風蠱(☶☴)そのものだと断じている。当のラネーフスカヤは、聞く耳を持たないどころか、トロフィーモフの”童蒙”をいじくる訳ですが、山風蠱も、山水蒙も、どちらも、進展は望めない、停滞(艮=☶)しか生まない平行線に終始するだけでしょう。
■第三幕 90~91ページより引用
アーニャ登場
アーニャ (わくわくして)いま台所で、どこかの人が、桜の園は今日、売 れてしまったと話していたわ。
ラネーフスカヤ 誰が買ったの。
アーニャ 誰とも言わずに、行ってしまったの。(トロフィーモフと踊る。
ふたり広間へ去る)
↑ まさに、こちらのアーニャとトロフィーモフは、同じ悦びを共有している、まさに、兌(☱)を分かち合っている、兌為沢(☱☱)の状況を端的に表しているでしょう。爻は、四爻辺りでしょうか。
『九四は、商(はか)りて兌(よろこ)ぶ。』
天、人、地の、人の、混沌な部分の四爻、陽爻で動きがある、しかし、どこか、商り考えて素直に楽しめない心理も密かに抱えている。兌為沢の九四の之卦は、水沢節(☵☱)・・・滞る、節制・・・・・・。
■第三幕 98~99ページより引用
ピーシチク どうだったね、競売は? 話してくれよ、さあ!
ラネーフスカヤ 売れたの、桜の園は?
ロパーヒン 売れました。
ラネーフスカヤ 誰が買ったの?
ロパーヒン わたしが買いました。(間)
ラネーフスカヤ夫人、がっくりとなる。もし肘かけ椅子とテーブルの
そばに立っていなかったら、倒れたにちがいない。ワーリャはバンド
から鍵束をはずし、それを客間中央の床へ投げつけて退場。
ロパーヒン わたしが買ったんです!
(省略)
■第三幕 100~101ページより引用
音楽がはじまる。ラネーフスカヤ夫人は椅子に沈みこんで、はげし
く泣く。
ロパーヒン (責めるように)一体なぜ、なんだってあなたは、わたしの言
うことを聴かなかったんです? わたしの大事な奥さん、お気の毒です
が、今となってはとり返しがつきません。
・・・まさに、沢雷随のまま流されるように生き、山風蠱もそのままにしていた結果、桜の園は望んでいなかった者の手に渡り、穏やかな毎日をも天馬なさなければならなくなった・・・・・・。易経の説く、
「変わらない為に、変わり続ける」という真理を怠った結果が招いた状況と断じても過言では無いでしょう。
第四幕では、微かな希望の残る新たな旅に出たラネーフスカヤ達ですが、敢えて、今回はこの第三幕まででとどめておきたいと思います。過去に生きるか、現在に生きるか、未来を思い(或いは憂い)生きるか、それは人それぞれですが、今作は、過去を、過去だけを生きようとする者達に、一種のロールモデルを示した、時代は大幅に違えど、その普遍性を証明した、易経に値する戯曲と捉えても過言では無いでしょう。過去だけでなく、時に未来を思い、見据え、現実としっかり向き合う・・・。その中で、桜の園でなくても、ささやかな鉢の中の茎でも咲かせられたら良い。他人の思惑や偏見に惑わされる事無く、ただただまっすぐに。
と、こちらのnoteは、ささやかでなく、もっともっと更新しなければ!と、三元九運も切り替わった大事な時期(占い愛好家らしい事を言ってみる💦)ですし、新たに想いを、沢火革(☱☲)の如く、革めています。
時々、つい推し活に力を入れてしまいがちな中年男性の私ですが💦、東洋あ占術には今後も真摯に取り組む所存です。今後とも宜しくお願い申し上げます!
令和六年 二月二十五日
副汐 健宇