東京藝術大学大学美術館は“大“賑わい〜「大吉原展」が示すもの
東京芸大の美術館で開催されている「大吉原展」。本展を知ったのは、皮肉にも本展がネット上等で問題視されていたという報道だった。
例えば4月25日の朝日新聞「『大吉原展』に開催前から批判 負の歴史の見せ方は」という記事の中には、<「女性の性暴力の歴史に触れていない」「吉原を美化している」といった批判が上がった>と書かれている。どうも、開催前の広報の仕方にも問題があったようだ。
私は“吉原“が好きである。と書くと、誤解あるいは上記のような批判を受けるかもしれない。正確に言うと、私が好きなのは落語を中心とした文化の世界で描かれる“吉原“である。
落語において登場する吉原は、「紺屋高尾」などで描かれる上級花魁が相手をする大見世だけではなく、「五人まわし」に登場する中下級妓楼、さらには「お直し」では最下級の廓が登場する。
そこには、人間の本質があり、疑似恋愛を仲介としたばかし合いがあり、ひょっとしたらと思わせる純愛がある。
浮世絵などのアートの世界が取り上げたのは、大部分が大見世を中心とした、浮世の悩みを忘れさせるワンダーランド。これも、訴えかける何かがある。
表現者たちが“吉原“を取り上げた理由はなにか。彼らのイマジネーションを刺激する存在だったのか、それとも現代における女性のグラビアのように需要が創作を喚起したのか。
一方で、上記における批判者が訴える人身売買・女性の商品化といった負の側面を、私を含めて、現代の鑑賞家たちは当然に了解している。しかし、現在の物差しで“吉原“を評価してなんの意味があるのだろうか。
展覧会に戻ろう。私は、正直なところ“大“としているけれど、まぁサクッと鑑賞できるだろうとタカを括っていた。とんでもない、とんでもない、本当に“大“だった。大英博物館始め、海外からも喜多川歌麿らの作品が持ち込まれているし、吉原の妓楼の大模型は展示されている。映像資料も当時の吉原を感じさせてくれる。
“批判“など吹っ飛ばすかの如く、多くの来客(GW中ではあるものの、平日)があり、大半は女性である。
“吉原“の遊女たちのほとんどは、自らの意思に反して売られてきた。その中で、懸命に生き、可能なものは教養を身につけ、時代のファッション・リーダーとなるべく苦界の中で自分を磨いた。
彼女たちには罪はなく、結果として世界に類を見ない文化を創り上げた。どのような批判があろうとも、それは事実である