ショートショート 1分間の国 ◎【阿J正伝】
「いやいや。うわあ。……、そうとうヤバいんじゃないか、これ」
佐藤祐介は思わず呟いて寝起きの頭を掻き毟った。ここしばらく深く悩まされているのだ。
窓の外はすぐ隣のアパートの灰色の壁が迫っている。
佐藤祐介名義のユーチューブ番組の企画と演出を担当してもらってきた木村隆光を本気で怒らせてしまった。木村がいなければ、もうこれから先、まったく手も足も出せない。番組は終了するしかない。
少しばかりヒットして、ようやく飯が食える状態になりかけたところだというのに。
演者としてはともかく、企画や演出については、自分はまったくの素人以下で見込みがないことは、よくわかっている。お笑い芸人をめざして約10年の末にようやく運よく掴んだブレイクの端緒が、掌からスルスルと逃げていく。
そんな、遅刻が多いからって、偉そうな口を利いたからって、いいじゃないのよ。
5歳年下の木村を、あからさまに後輩扱いしたのはまずかったなあ、と佐藤はいちおう反省してみる。
あいつは才能があるとみんなが認めているし、まだ若い。これからなんとでもなるからなあ。
そして捨てられた気分になる。
アルバイト生活に逆戻りか。少しは名前と顔が知れて女の子が近づいてくるようになったというのに、それも元の木阿弥だろう。
ちょっと偉そうに振る舞ってもそんなに本気で怒らなくてもいいのに。
しかし木村にしてみれば、こんな佐藤のまるで漫画のように自己中心的なキャラクターが笑いに化けるかもしれないと思って組んではみたものの、ついに忍耐の限界を超え、堪忍袋の緒が切れてしまったのだった。
影に回って面白おかしく自分の悪口を吹聴されたりしたのではメンツも立たない。もう取り返しはつかないのだ。
しかたないから何回でも謝るしかないか。
もちろん絶縁をいい渡されてからこれまで何度も連絡を取ろうと試みたけれども、そして結局、木村が再び姿を現すことはなかった。
ラクしたいなあ。これからはラクして暮らしたい。もう芸人だなんだっていってないで、なんでもいいから、とにかくラクして暮らしたい。
その日暮らしのアルバイト生活が2ヵ月ほど過ぎ、とうとう追い詰められた気分になりはじめた佐藤は、切実に願った。
貯金を切り崩せばあと数ヵ月は生活していける。しかし、これは佐藤としては忘れたままにしておきたいのだが、それ以上の額の借金が親にある。2度の大学とお笑い学校の入学金が主な内訳だ。返せないままズルズルと35歳のいままで引きずってきた。ひどく甘えた話だと自覚してはいる。
お笑い芸人という夢はいったん横に置くとして、ラクに暮らすには定職に就くしかない。定職に就くなら正社員しかない、と佐藤は考える。待遇がよくて自分の志向に合った仕事ができることが入社の条件だ。まあ、いまふうのIT関連かファッション関係がいい。モテるだろうし。
結婚だってしたいのだ。ひとりっ子だから早く親を安心させたい。
しかし現実は厳しい。いくら書類を送っても採用面接に漕ぎ着けることすらできない。
どうしたんだろうなあ、世のなかを見る目やファッションセンスはあるつもりなんだけどなあ。
こんなとき、佐藤はいつも誰かのせいにする。
なんでこんなことになるんだよ。木村のヤツ、絶対に恨むからな。
世のなか間違っているだろ。ここにこんなにいい人材が遊んでいるというのに。みんなはどこ見てんだよ、まったく。
佐藤なりの妥協を繰り返し、ついに面接試験の日程通知をもらったのは、大手外食チェーンだった。応募資格ギリギリの35歳を過ぎるのも、もう目前のところだった。
俺はやっぱり持っているのだ。
「安全、安心な食を大勢のお客さまにお届けする、という御社のたいへん立派な企業理念に共感いたしまして」
志望の動機を語った途端、面接官の表情が険しくなった。それからひと呼吸おいて大柄な中年の面接官は低い声でいった。
「安全、安心な食、なんて簡単にはいうけれど、それが本当に実現できると思いますか」
眼鏡の奥の目が意地悪そうにこちらを見据えている。
社員がそんなことをいうなんて、と一瞬腹が立ちかけたけれども、佐藤はグッと堪えた。しかし実はその直前、「安全、安心な食を大勢のお客さまにお届けする」と暗記してきた企業理念を棒読みしたとき、佐藤はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべてしまっていたのだ。
長くお笑いのことばかりを考えていてクセになってしまったのか、もともとからそういう性格なのか。
「キミは弊社に入って具体的になにをしたいのですか」
追い討ちをかけられて簡単に佐藤は言葉に詰まる。四方八方に目が泳ぐ。
面接官は狼狽える佐藤にそれ以上の猶予は与えず、手振りで退席を促した。
落ちたな。落ちたか。なんなんだよあいつ。「安全、安心な食を大勢のお客さまにお届けする」っていうのは会社の理念だろう。理念は守らなくちゃいけないものじゃないの。できるできないじゃなくて。あれは嘘かよ、……。みんな嘘だとわかっていて調子を合わせてるんじゃないのかよ。
木村のヤツもだよ。どいつもこいつも腹が立つ。
しばらく歩いて振り返ると、いましがた面接試験を受けてきた本社ビルの向こうの方角に、血のように赤く大きな太陽が沈んでいこうとしていた。
佐藤祐介は立ち止まり、誰かまた自分と一緒にユーチューブをやってくれる才能のあるヤツはいないものだろうか、とか、イナカで両親が暮らしているマンションはいったいいくらくらいで売れるだろうか、などとぼんやり考えた。そしてつくづく思うのだった。
なんで世のなか、こんなしょうもないことになっちゃっているんだろうなあ。そんなに酷いことをしたわけでもないのに。
(了)
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