ショートショート 1分間の国 ◎【ウソでもいいの】




 突然で恐縮だが、私はウソつきだ。自慢ではないけれども生まれてこのかたずっとウソをつき続けてきた。


 たとえばまだヨチヨチ歩きのころ、親に連れられていったデパートで知らないおばちゃんに「どうしたの。迷子になっちゃったの」と聞かれ、母親がすぐそばにいるにも関わらず、そしてそれを知っているにも関わらず「ウン」とさも可愛らしく首を縦に振って迷子にしてもらったことがある。


 子供時代には、毎年元旦の朝に家族がそれぞれのこの1年の目標を発表するという習わしが我が家にはあった。それでたしか小学校1年生のとき、「今年は算数がんばります」などとしおらしく語った姉の次の番だった私が口を開こうとすると、それを遮って母親が「今年はウソをつかないようにね」とやさしく、しかし冷たく宣告したのだった。


 なるほどウソつきの1年の計など聞いても仕方がない、ということか。しかもそれ以前にあまりにウソばかりで本当のことをいわないので、この息子は実はバカなのではないかと疑っていたフシさえある。


 中学校に入ると、私の本名は磯野誠だけれども、さっそくウソノウソというあだ名を奉られた。


 ウソつきでそのうえ怠け者で根性なしの私に取り得はまったくないけれども、類が友というのだろうか、ウソと怠けと根性なしにだけはきわめて敏感に嗅覚が働く。


 そういう私からすると、ウソに対する世間の感覚は年ごとに鈍くなっている。もういちいち目くじら立ててもいられないのか、バカに向かって正論を語っても仕方がないと諦めているのか。


 今年、2024年の社会の動きを占ったりしてくれた方々、お疲れさまではあったけれど、ほとんどすべてがウソつきだったことが正月の地震と大事故で判明した。しかし、それを非難する声はまったく上がってこない。


 そんな遊び半分の占いの結果を口やかましく咎め立てしてもくだらない、なのだろうけれども、これで商売が成り立つなら苦労はない。あいつは当たらないよ、という評判を立てるくらいのお仕置きは必要だろう。


 世間はウソに鈍感になっている。寛容になっている部分もある。けれども日本はますますパンツのゴムが緩むようにただだらしない。


 生まれつきのウソつきの私にとっては生きやすい時代になったともいえる。しかし私はウソをついて人を騙し、なにがしかの利益を得ようとしているわけではないので、かえって手応えがなくつまらなくなってきた。


 その一方で、やはりウソの怖さがいよいよヒタヒタと迫っている感じがする。ウソはウソをつくほうの人間もダメにしてしまう。ウソばかりついていると現実の加減が徐々に崩れてわからなくなってしまうのだ。虚実混交といえば格好はいいけれども、ボケの一種のようなものだ。


 これは長年ギャグを考え続けている人にもいえる。最晩年の赤塚不二夫氏はどう見ても常軌を逸した生活をしていたし、それは酒のせいばかりではなかった。酒のせいにすればなんとなく丸く収まるのでそういうことになっただけだ。


 最近ネット上でよく見かける松本人志の顔面には平家ガニの怨霊が取り憑いている、というウソは置いておいて、彼の言動にもその兆候が現れている。と、私は思う。もともと極端に一般知識が少ない傾向が察せられたから(クイズなどの類を徹底的に遠ざけている)、このギャグづくり/ウソつきの悪影響も著しいのではないか、とも勘ぐったりする。そしてあくまで私個人はそう感じる。


 カニが進化の過程で陸に揚がり、クモになったのだ。


 ウソは怖い。このままでは日本の社会全体がウソボケしてしまうぞ。

 

 だから今年1年、私はウソをつかないで暮らす。いや、ホントだってば。


                              (了)


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