掌編小説●【エロ伝】
大学の就職オリエンテーションで最初にやる職業適性検査の、それも最初の質問「あなたが自分の時間を最も多く費やしてきたと考えるものはなんですか?」に、ひとこと「エロ」と答えた男がいる。
たいへん挑発的にも受け取られかねないけれども、彼には彼なりの理屈があった。たとえば「読書」「ビデオ鑑賞」「ネットサーフィン」などというけれども、その実際の内容はいかがなものか。何割くらいをエロが占めているのか、というのだ。
我が身を振り返り、いわれてみれば確かにそうかもしれない。仕事の最中にエロなことを考えているのは日本人だけだ、といわれるくらい日本男児のエロ好きは世界的にも有名らしい。
なにかの用で彼と一緒に街を歩いていると、ときどき「おおっ」とか「いえーい」、「よしっ」などという小さな呟きが聞こえる。なにごとかと尋ねると「見えた」という。胸元から覗く浮きブラとかパンティとか裸の脇とかが見えたというのである。どこで、いつ、と説明を求めてもこちらにはさっぱりわからない。そのたびにさすがエロに邁進する男だと深く感心する。たぶん私やふつうの人間とは見えている景色が違う。
バカにして笑って済ませてはいけない。自分に正直にまっすぐ生きることの大切さ、強さを彼に学ぼう。
大学を卒業後、彼はエロ雑誌を発行している出版社に入社した。弱小である。エロ一直線である。
職場では彼自身も積極的に誌面づくり参加し、SMクラブの取材では女王様にあっというまにキリリと縛り上げられてズボンを脱がされ、いまでいうハプニングバーのような店では隣で飲んでいたそこそこ顔の売れている中年芸能人がいきなり「ぶってぶってぶって!!」と同伴の女に絶叫する場面に出くわしたりしていた。
「人間てさあ、わかんないものだよねえ」
自分のことは棚に上げてたいへん楽しそうであったけれども、スチールよりムービーのほうがやはり将来的には有望だし面白いと考えたのだろう、入社数年でその出版社は退職し、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったAV監督の制作チームで働くようになった。
この監督の初の海外ロケ作品、全体の約半分を騎馬隊の閲兵式が占めているというわけのわからない作品に彼の姿を確認することができる。しかし肝心なシーンではエロの割にたいへんに繊細な彼らしく、ベッドの端に腰掛けたままスタンバイしている女優のほうへいこうかいくまいかオドオドと躊躇しているだけで出番が終わってしまっていた。
なにしろ黎明期のことゆえ、出演者も製作陣も監督もすべてが素人なのだった。
結局、ここの仕事も1年足らずで彼は辞めてしまう。繊細な彼には現場の荒々しさ粗さが耐えられなかったのだろう。それでも気を取り直してもう1度働かせてもらえないかと連絡を入れたところ、三行半ですらなくたった1行「お前なんかいらない」と返事がきたそうだ。
ここにきて彼もエロそのものを仕事にするのはムリだと悟ったらしい。それほど気持もフィジカルも強いほうだとはいえないので男優はもう端から見込みがない。かといっていくら安物カメラを買ってきて振り回しても撮影の腕が上がるわけでもない。関連する仕事にカバン屋といって新作AVのパッケージを鞄に詰めてレンタルビデオ店を全国行脚する仕事があったけれども、これは営業であってまったくエロくない。
そうこうするうち、彼の消息が途絶えた。ばったりと出くわしたのは、最後に会ってから約20年ぶりのことだった。風の噂では田舎に帰って工場勤めをしていると聞いていたのだけれども、実際は東京で結婚もし、古書店やアナログレコードの店、古着屋を経営していたのだった。
古書店がちゃんとエロ本に特化していると聞いて、私は嬉しかった。エロ一直線、いまだエロを捨てていないのと、やはりエロも文化なのだからそうこなくてはいけないと思ったのだ。
すぐ近くだという店に連れていってもらった。『まんちんだらけ』というわかりやすく効果的な名前のその店は小さなビルの2階にあった。
「ビデオは扱わないの? そろそろ文化財扱いになってもいいころだろ?」
約20坪の店内に林立する書棚に囲まれて香ばしいコーヒーをご馳走になりながら、私は聞いた。
「もうかなりストックはしているけど、整理に手が回らないのもあって、まだ温存中。……本だって溜まっていくばかりなんだから」
いやしかしこれだけの品揃えなら真面目に告知さえすれば全国から好事家が反応してくるに違いない。
20年ぶりのエロ男の顔を改めてしげしげと眺めずいぶん知的な印象に変わったものだと感心しながら私は思った。その日暮らしのようなフリーランスの私よりはずっと地に足がついた充実した生活を送っているに違いない。
「これからのポルノはどうなると思う?」
面白半分に聞いて見た。
「当面は安泰じゃないかな。一瞬ちょっと雲行きが怪しくなったかなと思ったんだけど。とくにムービーはディープフェイクが実用になってきたから。……あれは大きいと思うんだ」
「フェイク作品がたくさん出回るってこと?」
「いやそれやると肖像権やら著作権やら名誉毀損やらで一発でやられるから、それよりいろいろないい訳ができるようになるのが大きいのさ。これがじわっと効いてくるよ」
「ん? ああ。たとえば顔バレしたときに誰かの嫌がらせだっていい逃れができるとか?」
「そう。それもあるし、過去の作品を再生できるし。いまAVの出演希望者が大量発生しているとはいっても、以前のレベルの女優はほとんどいないから。整形ばっかりだし。いい訳できるようになるのはいいよね。……、女優が枯れたらムービーは終わりでしょ。まずなんだかんだの前に女優で度肝を抜かないと」
たぶん近々のうちに一般の有名女優の中からデビューする者が出てきて大騒ぎになるんじゃないかな、とエロ男はしたり顔で付け加えて、いらっしゃいませ、古書店にはめずらしく来客に挨拶する。
なんだか羨ましい気分で家に帰り、自分も好きなこと、バンドをもっと真剣にやっておくべきだったなあ、などと反省してみる。しかし、いまさらなのだ。もうどうにもしようがない。
漠然と考えているうち、気が付いた。エロ男の古書店で店番をしていた女性。コーヒーを淹れてくれた。あの女性はもしかすると三枝夢乃ではなかったのだろうか。どこかで見たことがあるような、と見た瞬間からずっとどこか引っかかっていたのだ。そうだ間違いない。だいぶふくよかになったけれども、可愛い系のかなり売れたAV女優だった。
おお、ますます羨ましいではないか。
すげえなエロ男。一途で。……、よし、私はバンドをやろう。工夫すれば独りでもなんとかなる。遅くても滑稽でもいい。歌いたいことはある。また1人、パンクおじさんの誕生だ。あのとき手放した旗をもう1度拾い上げよう。
(了)
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