掌編小説【ユリ伯母さんの思い出】
私の眷属は女系であり、そして明らかに女性優位である。生まれてくる子どもたちは圧倒的に女が多く、外からきた妻たち母たちも例外なく一家の主導権を握り、たとえば家勢を競って互いに張り合ったりもする。
対してどこの家でも父や夫は物静かで口数少なく、たまにお互いが顔を合わせても挨拶以上の言葉を交わしたことがない。なかには誇張ではなく子ども時代から一度もその声を耳にしたことがないおじさんやいとこもいる。
男たちはみな、私もだが、ただ静かで穏やかであればそれでいいと祈りながら慎ましく暮らしている。うっかり余分な口を滑らせるなどして絶対権力者たる妻や母の不興を買うのはまったくの愚の骨頂だと心得ている。
久しぶりに会うおばさんたちは期待を裏切らず、私やほかの男たちを圧倒する。
こんなことがあった。ある親戚のお宅にお邪魔し、それでは一緒に食事をしましょうということになって玄関先まで出ると、先に外に出ていたその家のおばさん、ユリ伯母さんがどこかのサンダル履きのおじさんと文字通り鼻と鼻を突き合わせていい争いをしていた。
両者たいへんに激しい剣幕で、白髪のユリ伯母さんの顔が少し青ざめていたのが怖さを誘った。逸脱しそうな空気が漲っていた。眷属の女たちといるときには気が抜けない。
サンダル履きのおじさんは隣家の人で、そもそもことの発端は私たちが乗ってきた車の停め方にあるらしかった。それなら、と私が急いで車に近づこうとしたとき、顎を引き額を前のめりに傾けたユリ伯母さんが相手の目を睨みつけたまま、いつもより少しだけ低い、落ち着いた声でいった。
「車を動かしてくれるの? それならその前に写真を撮っておいてちょうだい。ここの敷石から車がどのくらい離れているか。……、メジャーで実際の寸法を測っておいてくれるとなおいいんだけど」
塀の内側、少し離れた場所でユリ伯母さんのようすを見守っていた伯母さんの夫は、諍いの仲裁に入るようすも見せず、伯母さんの言葉に弾かれたように家の中にとって返し、60センチほどの古びて飴色がかった竹尺を車と隣家の敷石のあいだに寝かせて写真を撮った。
グッジョブ。
小柄だけれど彫りの深いハンサムな顔立ちの伯母さんの夫は、いつもの眉間の深い皺が伸びて誇らしげだったのが哀しかった。
隣家のおじさんはユリ伯母さんに続いてドタドタと玄関から吐き出されてきた私たちの数にすでに気圧されていて、それ以上はなにもいわず、くるりと踵を返して去っていった。
これがユリ伯母さん70代半ばのことである。掛け値なしの老婆である。気が短い、気が強い、利かん気というだけでは済まされない何かの滾りを私は感じてしまう。
それはこの一件に続いて起きたその年の冬の出来事にも通じている。
記録的な大雪が降ったその日、ユリ伯母さんは玄関の上、1階部分の屋根に降り積もった雪だけでも落とそうと、2階のドーマー式の窓から屋根の上に出た。これだけでもふつうの老婆のやることではない。
時刻は午前10時頃で、陽射しを受けた雪が緩み、なんと前触れなく、勢いよく滑り落ちてしまった。ユリ伯母さんは足場も掴まりどころもない屋根の上の中途半端な場所に1人取り残されてしまった。
「不用意に動くとズルっと滑るし、うつ伏せに大の字になってしがみついたままどうしようかと思ったわよ、私」
最期まで明晰だったユリ伯母さんは楽しそうに武勇伝を語ってくれるのだけれども、この老婆は誰の助けも借りず、ジリジリと少しづつ少しづつ屋根を這い登って、ついに3メートルほど先の2階の窓までたどり着いたのだ。時刻はすでに午後2時頃だったという。
つまり屋根に張り付いて4時間だ。寒かっただろうし腹這いで冷えれば尿意を催したかもしれず、いやそれ以上に、というかその間、たぶん昼食も摂らず妻がいないことにも気付かず、ただ家の中にいたおじさんもたいしたもの、さすが眷属の男という感じがする。
しかしそうなったのも、きっと一から十までユリ伯母さんのせいなのだ。なぜユリ伯母さんは救けを呼ばなかったのか? それは隣家のおじさんに笑われるのが我慢ならなかったからに違いないのだ。
ここまでは軽い笑い話の範囲で落ち着く。しかしユリ伯母さんの逸話には、もっと重くて暗いものもある。
ユリ伯母さんとハンサムな夫は2男2女に恵まれた。なにがあったのかユリ伯母さんが長男を毛嫌いし、その代わりといってはおかしいけれども、次男を溺愛していたのは傍目にも明らかだった。それがあからさまなのもいかにも我が眷属の女だ。
長男はユリ伯母さんいわく「高校の同窓会でたまたま再会したっていうんだけどきっとその日のうちじゃない。そのまんまデキちゃって」結婚し、次男は会社経営者の1人娘と結婚して、跡取りのために養子に入った。もちろんこの結婚に最初ユリ伯母さんは反対したけれども、可愛い次男坊が幸せになるのなら、と渋々折れたのだろう。
しかし残念なことに、結婚から10年も経たないうちに次男夫婦は2人とも次々に病死してしまった。おおいに嘆き悲しんだユリ伯母さんは、それからなんということか、遠く離れた土地の次男夫婦が入っている墓のすぐ隣に自分の墓を建ててしまったのである。もちろん自分の家の墓はある。
我を貫き通すのもここまでくれば空恐ろしい。禍根を残すことは容易に察しられ、いささか狂気すら感じる。2代、3代と時代が下ればユリ伯母さんは子孫たちから鬼婆扱いされるかもしれない。
そんなユリ伯母さん自身は「私、なんだか死なないような気がするのよ」といっていたけれども死んだ。享年99歳。すでに到達確実と思われていた100歳を目前の、しかし大往生だった。最期まで元気かくしゃくとしていた。死に顔はローリング・ストーンズのキース・リチャードに似ていた。
死ぬ1年ほど前には、老人病院でもちょっとした騒動を起こしている。
ユリ伯母さんは食堂から自分の病室に戻ろうとしてついうっかり間違えて、隣の病室のドアを開けてしまい、そこの患者さんになにごとか咎められたらしい。
そのときユリ伯母さんは病室の出入り口に仁王立ちになり、両腕を広げてこう叫んだという。
「なにを!! やるか!!」
お断りしておくけれども、我が眷属に山賊の血も海賊の血も、武闘派ヤクザの血も流れてはいない。ユリ伯母さんもふだんはたいへん上品な人で身なりにも気をつかい、人前では化粧とマニキュアを落としたことのない人だった。
よく、ある人物を差して裏表がある、などというけれども、裏表などあたりまえでむしろ人間は立体的な生きものなのだ、と私たち眷属の男は幼少期から叩きこまれて育つ。
そういえば私の子供時代のあだ名は“坊さん”であった。女たちと右往左往する男たちの話はまだまだあるけれども、それはまたおいおいのうちに。
(了)
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