掌編小説【クロスワードパズル】
四百字詰原稿用紙約8枚
怪我の検査、治療と警察官の聴き取りが終わって病室に入ると、隣のベッドに若い女の見舞客がいて、ものめずらしげにこちらを見た。大きな眼と真っ黒なおかっぱ頭、ピンク地にバラの花柄のマスクが、その幼げな外貌とは裏腹に夜の商売の雰囲気を感じさせた。
「こんにちは。よろしくお願いします」
見舞われているほう、ベッドに寝ている若い男が首をもたげて快活に挨拶を送ってきた。
「階段から落っこっちゃってこのザマです。右脚と肋骨3本やられてます」
「この左肘はたぶん骨折していて、でも頭は切れただけだと思うんだけどね」
頭を下げながら答えた。
付け加えて、若い男のおおらかな雰囲気につられて、早朝の繁華街で喧嘩を止めに入ったらいきなり柔道技で返り討ちに逢った、と説明した。
怪我をしたときに脱げた靴が両方ともなくなっていたのも大きな被害のような気もするけれども、なんとなく間抜けなので黙っておいた。
「うわわ。いきなり叩きつけられちゃったら、そりゃたまんないっすね。せめてツーターンくらいはほしいな」
「でもなんかそういうのよく聞く。いきなり殴りかかってきたりとか蹴ったりとか、体当たりとか」
スツールに座った見舞いの女がベッド越しに話すと、4人部屋の廊下側のベッドの向こうなので、部屋の隅に身を潜めているように見える。
「いっきなりトレイで頭割られた議員さんもいたしね」
女はクラブで働いていて、タチの悪い酔い方をする客に憤慨したボーイが、有無をいわさず全力でトレイを縦に振り下ろした事件があったのだという。
「そういえばリンちゃんどこいったんだろ」
「相手がヤバかったよな。頭って血が大げさに出るし」
リンちゃんは議員の頭にトレイの唐竹割を見舞ったボーイである。
この賑やかなカップルは、後になって聞いたところによると、北海道の沿岸の町から3年ほど前に“駆け落ちっぽく”出てきて同棲しているのだそうだ。高校卒業と同時らしいからいま20歳そこそこということになる。彼氏はホストで、今回の入院では健康保険の取り扱いに苦労したそうだ。
「ホント田舎だもん。きれいさっぱりなんにもないから、……。なあ、デートするったって夜の浜めぐりだもんなあ」
2人は屈託なく笑う。
「線路はあるけど電車は走ってない。安定した職場といえばちっちゃい役場か農協か漁協だけ」
「ミスドとかスターバックスとかでバイトすんの憧れだったもんなあ、私」
「いやマジですって。吉幾三の『俺ら東京さ行くだ』知ってますよね。日本で最初のラップっていわれているヤツ。最近マッシュアップでイクゾロジックなんつって格好よくなってるヤツ。ほんとあれのまんまだから。〈オラの村には電気がねえ〉くらいかな、違ってるのは」
「ラジオとテレビくらいはあるわ」
2人はまたケラケラと笑った。
そんなふうだったから、看護師から彼氏が外付けの非常階段の踊り場から転落したのには、実は自殺未遂の可能性がある、と聞かされたときには驚いた。
だから道産子の青年には窓側ではなく通路側のベッドが与えられていたのかもしれない。この地域のビルのほとんどが事故物件を抱えているという話も思い出す。死は身近なところに潜んでいる。
そして同室のもうひとりの患者は、いつもスマートフォンを眺めているもの静かな中年の男だった。トラックの運転手をしていて事故を起こしたらしい。
スマートフォンで何を見ているのかといえばプロレス、それも主に女子プロレスだ。女子プロレスではないときには、流血があたりまえのデスマッチみたいなものを見ている。
田中さんといったその男は左手の小指の第2関節から先がなく、また腕には刺青がのぞいていたので、以前は暴力団関係とつながりがあった人物なのかもしれない。
以前は、と思わせるほどいまは静かで物腰が柔らかかった。
これは感動ですぞ、とその田中さんから送られてきたユーチューブ上の番組を開くと、レスラーとしては小柄な血まみれの男がリングのコーナーに座り込んでいる。その正面、リングのほぼ中央に対戦相手らしいもうひとりのレスラーがマットに額を付けて土下座していた。
コーナーに座り込んだ先輩らしいレスラーがマイクを片手にようやく、ゆっくり話はじめた。それは病院で同室になった私と道産子の青年にとっては不思議ななりゆきだった。
内容はこうだ。
〈燃え尽きて、死んでもいい覚悟でリングに上がるってよお、バカヤロウ。世の中には死にたくて死ぬ奴はいねえんだ。生きていたいのに死ななきゃいけねえヤツ、生きていたいのに死んじまうヤツがごまんといるんだ。
お前みたいに最高の仲間に囲まれて、たくさんのファンに応援されて、夢だった新日本プロレスに入門して、プロレスラーとしてデビューして、新日本ジュニアのトップとって、最高の人生を送っているヤツがよお、“死んでもいい覚悟を持ってリングに上がる”なんていうなよ。
俺たちは死んでもおかしくない、大怪我してもおかしくないリングに上がって、生きて、生きて、生きて、リングを降りなきゃいけないだろうが。
死んでもいい覚悟なんて捨ててしまえ。 死んでもいい覚悟なんていらねえんだよ!そうすればオマエはもっと強くなる〉
漢とか侠気とかとは遠く離れて縁がなく、むしろいつも斜に構えてしまう私の胸にも、血まみれのレスラーのしわがれ声は迫った。〈もっと強くなる〉というのは、もっと凄いプロレスができるようになる、ということだろう。
道産子が自殺未遂を犯していたのかもしれないという話を、田中さんは耳にしていたのだろうか。道産子もこれを見せられたのだろうか。
10日ほど経って道産子の退院の日がやってきた。まだ松葉杖を離せず笑うと脇腹に痛みが響く状態だけれども、やはり迎えにきた彼女ともども嬉しそうだった。
「1回田舎に帰って、頭を下げなきゃならないところがあるなら頭を下げて、またやり直せよ。誰もそんなに責めたりしないから」
自分でも思っていなかった言葉が出た。青年はホストクラブをすでにクビになっているし、彼女の店も感染症流行のあおりを受けて風前の灯らしい。それなら東京でただジタバタするよりも、仕切り直しができるならそうした方がいいと漠然と思ってはいたのだが。
「帰ったらわかるかなあ、私だって」
彼女は一昨年、頬と顎の下の脂肪を吸引したのだそうだ。
「自分で思ってるより変わってないって」
青年は笑いながらいってスマートホンをかざした。
「撮ってあげるよ。今日が退院以上の記念日になるといいな」
ちょうど病院の職員がやってきたので、私も入って3人の写真も撮ってもらった。
「オレはバツイチだから消したほうがいいかも。……、きみたちが羨ましいよ」
トイレに立ってそのうち戻ってくるはずの田中さんがいつまで経っても姿を現さないので、2人とはそのままの別れになった。
田中さんがトイレの窓から飛び降りたという情報が流れたのは、2人が出ていって30分も経たない内だった。田中さんは廃棄物庫の屋根の尖った先端部分に首を打ち付けて死んだらしい。
また警察の聴き取りがあるかもしれない。
冷蔵庫やキャビネットの上が片付いていてベッドの毛布などもきちんと畳まれているのはいつものことだったので気に留めなかったけれども、それも覚悟の行動のひとつだったのだ。
死にたくなくて死んだのだとしたら、田中さんはなにに殺されたのだろう。
しかし、それにしても、同室のカップルが病院を去るのを見計らって飛び降りるとは、心にはまだ温かい血が通っていたのではないのか。
よくわからない。何が起きているのか、なぜこうなるのか。
(了)
次回もお楽しみに。投げ銭(サポート)もご遠慮なく。
無断流用は固くお断りいたします。