掌編小説● 【秘密】




 早川速男には誰にも知られていない秘密がある。社会の隅々、生活の、本人も関知しない深部までことごとく監視がいき届き、そこで暴かれた事情が直ちに情報化され共有される現代において、個人が厳密に独りだけの秘密を保ち続けるのは実に稀なことかもしれない。


 もしあなたがいままったくなんの詮索も受けていないとすれば、あなたはこの世の中にいないことにされているのだろう。


 早川速男の秘密は重大である。今日の朝、家を出たと同時にオナラも出た、とか、せいぜい実は私の足の裏には裏切った男の名前が彫ってある、という程度の話ではない。


 早川速男は、いまや誰も知らないその秘密をよすがに生きている。世の中すべてが厭になり、「人間は地獄です」と独り静かに悟りを開いて3年半、なんとか生きながらえているのは、それだけとはいわないが、その秘密の煌きに負うところが大きい。


 その秘密の扉は〈正常位〉である。〈正常位〉はなぜ〈正常位〉と呼ばれているのか、〈正常位〉はいつから〈正常位〉と呼ばれるようになったのか。


 そして〈正常位〉以外は正常にあらずといわんばかりのこの呼称の傲慢さはどこからきているのであろう。これはたいへんに胡散臭い、正常位を国民に押し付けようとする陰謀の匂いがする、と早川速男はあるとき勘づいてしまったのだ。


 早川速男がネットにかじりついて知り得た情報はおよそ以下の通りだった。


1)〈正常位〉をするのは人間のほかゴリラなどごく一部の霊長類だけである。霊長類の中には〈仏壇返し〉みたいなことをするものももいるらしい。


2)〈正常位〉という表記が最初に用いられた時期については1964年10月初出の開高健『ずばり東京』所収「ある都庁職員の一日」に見出されるとの記述がウィキペディアにあるが、さらに古い使用は1950年代にまで遡ると思われる。


 ここから早川速男は次のように類推したのである。


 戦後の復興期、暮らしの簡素化や合理化、衛生環境の向上などをめざす「新生活運動」が全国で町をあげ、村を束ねて展開された。たとえば冠婚葬祭の見直しなどである。まだ大衆娯楽が発達していなかった当時、“嫁”さえきてくれれば祝儀も祝言もいらぬという青年は多かったはずだ。関係ないが。


 当時の住宅事情はいまよりもさらに貧しく、親子が薄い布団を敷いて川の字に寝る。そしてさらに襖一枚を隔てた隣の部屋に舅、姑が寝ているという状況もめずらしくはなかった。


 そんな状況で当代の若夫婦はどうするか、そう考えると、これはあまり場所を取らず、高さや動きのでない〈正常位〉しかあり得ないのではないか。


 もうひとつ、当時は1947年に大爆発したベビーブームの猛威を目の当たりにした時期であり、このままいけば将来的に人口過剰、たいへんなことになる、と危機感を募らせたということも考えられる。復興に人は必要だけれども、あまりにもやりすぎだ、と。


 そこで〈正常位〉こそが社会の公序良俗に則った良風だと印象づけるために〈正常位〉という尊大な呼称が採用されたのではないか、と早川速男は考えるのであった。なぜここで〈正常位〉かというと、後述するけれども男にとって、特に経験の少ない男にとってそれは難しい技術からだ。


 さらに早川速男は新生活運動とほぼ同時期に流行した性に関する各種の啓蒙活動にも着目した。謝国権が1960年に発表した『性生活の知恵』はベストセラーになったし、当時の大人向け雑誌には、男性誌、女性誌を問わず必ず性の相談室みたいなページがあったらしい。

 こうしたプロバガンダといってもいいほどの性の啓蒙、啓発、そして情報の氾濫を支えたのには謝国権のほか、奈良林洋、ドクトル・チエコなどがいた。おそらくこのあたりが〈正常位〉の出どころではないか、と早川速男は睨んでいる。官民が結託して〈正常位〉をでっち上げたのだ。そんなにアタマがよかっとは思えないが。しかし早川速男ははっきりとしたエビデンスを掴み次第、記事として週刊か月刊の『文春』に売るつもりだ。


 いやいや金儲けのためではないらしい。やはり日本の将来のために〈正常位〉の呪縛は解かなければならないのだ。


「日本男性の童貞率は30~34歳で12.7%に、35~39歳で9.5%に達しています。下限を18歳に設定すると全体で約25パーセントが童貞です」


 通勤の途中、仕事の合間、早川速男は考えたセールストークをアタマの中でなぞる。


「少子化が大きな社会問題となっているのに、これはいったいどうしたということなのでしょうか。実は見逃されてきたハードルのひとつに〈正常位〉がある、と私は見ています。〈正常位〉は難しい。いまネットで人気の怪物くんも、たしか34歳まで童貞でしたけれども、ずいぶんご苦労をされたようです」


 早川速男氏はアタマがクラクラしてくるのを覚える。


「男は〈正常位〉の呪いから解放されなければなりません。日本をこれ以上の少子化の危機から回避させるために、戦後の誤った性教育と策謀を見直し、改めなければなりません。私はそう考えます。やればできるのです。子どもはできる。私は寝たきりになってから4人のお子さんに恵まれた男性も知っております。子づくりは〈正常位〉から〈自由位〉へ、〈ノーマル・ポジション〉から〈フリー・フォーム〉へ」


 こんなふうにして人知れず体温の上がった早川速男は、早々と謝国権二というペンネームも用意している。しかし、実のところ、この謝国権二にパートナーはいない。もしかするとまだ童貞かもしれない。すべては机上の空論、絵に描いた餅、妄想なのだろうか。ま、世の中だいたいそんなものである。



                            (了)


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