掌編小説●【土曜日の公園】
ただダラダラしているうちになんとなく夜が明けて、さていまなにを考えていたのだろうと自問しても答えに窮するほどぼんやりしているのに、徹夜明けの倦怠感だけは確かにある。そして無為な時間も人生には必要なのだ、と弁解を忘れない。我ながら横着者だ。
カーテンを開けると家々の屋根が連なっているのがベランダ越しに目に飛び込む。夜のあいだに降りた露が朝陽に光って美しい。そのまま散歩に出ることにした。
早朝の澄んだ空気が猛烈な夏の暑さのようやくの衰えを感じさせ、まるで息を吹き返したような気分になる。かすかな甘い薫りや透明な空の明るさにも、すでに晩夏というより初秋の気配がある。まだ9月になったばかりだというのに。
マンションを出て橋を渡り、交差点を越えて公園へのゆるい坂を下る。歩道や芝生の上にトチノキの大きな枯葉が落ちている。やはり季節のめぐりが少し急すぎやしないか。
犬を連れているたぶん初老の女性が芝生越しに何人か見える。朝の支度をしてくれる同居人がいるのか、それとも独り暮らしなのか。
公園の中央を流れる川の小さな堰堤の端に茶褐色のサギが1羽とまってじっと水面を見ている。その頭上を遠慮のない大きな声でうるさく鳴きながら飛ぶのはカモメだ。カモメなど昔はいなかった。ここは海から25キロメートル以上も離れた山の麓だ。こんなところにまで飛んできて、いつのまにか棲み着いてしまっている。そしてたぶんこの辺りの野鳥のなかでは最も獰猛で最も貪欲だろう。
川面にはそんなカモメの餌食になることを免れた若いカモたちが浮かんでいる。
川に沿って大型のベンチが3つ並んでいる。不必要なほど太く頑丈そうな鉄筋がベンチの脚と頭上のパーゴラを支える柱を兼ねている。しかしパーゴラは日よけにも雨よけにもならないだろうし、藤などを這わせた形跡もない。しかも、ベンチ部分の長い座板は前後に2枚1組になっており、その継ぎ目である中央にいくほどV字型に沈んで座りにくい。これほど意匠が求められたというか、少なくとも許された時代があったということだ。
老人がいる。川を背に歩道と公園の芝生に向いてベンチに座り、明るい灰色のパンツの細い脚を組んでいる。ほとんど目の前になるまで存在に気づかなかったということは、老人の佇まいがあまりに静かだったか、こちらがキョロキョロと注意力散漫だったかだ。
お互いに軽く会釈を交わすと、老人は姿勢を変えず微笑みながら話しかけてきた。ウエーブのかかった銀髪の下に痩せた血色のあまりよくない顔があり、鳥のような目が窪んで鋭かった。
「いまそっちのほうへヘビが這っていったんだけれども」
思わず小さな声を上げ、慌てて足元を見回すがそれらしきものはいない。
「たぶんシマヘビ」
中途半端な話し方をする。
鳥たちといいヘビといい野生が豊かそうだけれども、これは環境の保全や美化運動のおかげで自然が帰ってきたというより、住宅街の隙間のようなこの公園に自然のほうが追い立てられ掻き寄せられてきただけのような気がする。
「ヘビがいるんですか。こんなところに」
「うん、いたよ。けっこう長かったよ」
「シマヘビなら、毒ヘビじゃないなら放っておいても大丈夫ですよね」
「犬の散歩にくるオバサンたちに見つからなければ」
いつも厄介ごとはオバサンから、とでもいいたげに聞こえた。この辺りでは見かけたことのない顔だと思いながら隣に腰を下ろす。年は見たところ70歳くらいで自分とはずいぶん離れているけれども気が合いそうだ。不思議なことにそういう人間に近づくとウキウキした気分になるのだ。
「オバサンとしては見つけたら騒がずにはいられないでしょうね」
「我々の秘密にしておこう」
かなりきわどい話をして、それをこれ以上膨らませるのも、と考えていると、老人は両手を後ろについて空を仰ぎ、言葉を継いだ。
「ほら、よく日本には少女とオバサンしかいないというよね。オトナの女がいないって意味で。でもね、本当はね、オバサンだけなんだよ。少女もいないの」
目元に皺が寄って楽しそうだ。
「えっ、じゃ、生まれた途端にオバサンってことですか。それはちょっと酷いなあ」
「いや、これは女の子の孫がいるヤツから聞いたんだけれども、小学校1年生のその娘に好きな男の子はいるかって聞いたら、もう初恋をしていて、その初恋の段階からソロバンづくなんだっていってた」
「小学校1年生ならモテるには勉強ができるとかスポーツが上手いとか顔がいいとかみたいなのがポイントじゃないんですか」
「それがさ、その孫娘、〈親ガチャの勝ち組〉っていったんだってさ」
老人は皮肉っぽく笑い、私は声を上げて笑った。
「でもそれはテレビで観たか誰かオトナが話しているのを小耳に挟んだかで、それをただ真似しているだけなんじゃないですか」
「うん、私も最初はそう思ったんだけど、病院の看護師とか若い女性たちにちょっと聞いてみたら、そうですよ、ちょっとませた女の子は初恋から計算づくですよ、打算ですよ、だってさ。あたりまえに。話半分にしてもすごいよ」
まあ、本当の惚れたはれたになってくればまた話は違ってくるだろう。
「ところで、バカというものはいつまでもどうしたってバカなんだろうか」
老人の声色が変わった。急にまたなにをいきなり、と驚いて顔を見ると、横を向いているその鳥の眼に心なしか涙が滲んでいるように見えた。
「……、いや、……バカの種類や程度にもよるでしょうけど」
オジサンは組んで下になったほうの脚の踵で小さな玉砂利をジリジリとならした。高級なスニーカーを履いている。
「ふつうに我々のあいだに暮らしているような、ヘタをすると威張り腐って堂々と踏ん反り返ってさえいるようなバカさ」
「ああ、そういうバカはなかなか治りませんね。もし治るとしても治りが遅くてほんの少しづつで、結局、寛解にまでは至らなかったりして」
「バカはどうしたってバカなのか、そうじゃなくてほんとうは、底の底ではみな同じなのか、それがわかればこんなに長いこと悩まなくてもよかったんだ」
老人は吐き出すようにいった。それは受け取り方の問題だろうと思ったけれども黙っていた。
「もう40年だよ。40年。耐えて耐えて、耐えてさあ、……耐えて、耐えて、耐えて、我ながらよく頑張ったと褒めてやりたいよ」
話は冗談ぽいのに声が震えて真に迫っている。
「もし信仰があれば悩まずに済むのだろうけれど、あいにく私は無神論者だし」
話の流れからいけば老人の悩みの原因はたぶん彼の妻で、赦せたり赦せなかったりしているうちに40年も経ったのではないのか。
「そうして我慢しているうち、嫌なことには蓋をして顧みないようにしていたから、いったい具体的になにがあったのかも忘れてしまった。いい加減なことでは絶対にないんだけれど忘れてしまうものなんだ」
話は別だが、実は私にも機能不全家族のあいだで育ったことがオトナになってからようやく理解できた経験があったので、軽々しく聞き流す気持ちにはならなかった。
とにかく、こんな早朝から公園のベンチで考え込まなければならないほど老人は深刻なのだ。
「考えたって、もう取り返しがつかないんだけどね」
「強気なバカは迷惑です」
これ以上は暗く沈んでもらいたくなかった。
「ほら、もうあまり先がないから死ぬ前に誰かに聞いてもらいたくてさ」
冗談めかしてはみたものの、老人はさっさと切り上げるようにいった。肩透かしを食らった気分になった。陽がだいぶ高くなってきた。
カラスまで飛んでくる。スズメの姿はない。
私が歩いてきた方向から、黒のジャージに黄色いウインドブレーカーを羽織った派手な2人組の女子学生が歩いてくる。シマヘビに驚かされなければいいけれど。
〈……、そうそう、それね。後になってからね、わかるんだよね〉
〈これってムッチャ腹たつじゃん。だって後になってあれは依怙贔屓だったって気づいてもどうにかなるわけじゃないじゃん。もう1回小学校に戻ってガッツリ文句いってやりたいけどさあ、……〉
〈この野郎、おまえサトミに気があったべ、とかって〉
2人は歩きながら手を叩いてケラケラ笑っている。
もしかしたらこのとき、隣に座っている老人が小さく鼻を啜った音が聞こえたかもしれない。
話に割り込むようだけれど君たち、人生ってどうもそういうものらしいよ。オジサンが君たちに教えてあげられるのはそれくらいしかないけれど。
……、気をつけな。若いと思っていても時間が経つのは早いんだ。あ、でももう君たちはオバサンなのかもしれないけれどね。
(了)
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