掌編小説 ◎【松尾正吉の失踪】
松尾正吉が約一年半前に購入した古民家にその息子である松尾孝史が訪れたのは、父と母が最後に電話で会話してから16日目、父に連絡がつかないとわかって2日目のことだった。
正吉がひとりで古民家暮らしをはじめて以来、2人は週に1回は連絡を取り合うことにしていた。なにごとにも几帳面な正吉がそうした約束ごとを破るのはこれがはじめてだった。
正吉が住んでいるはずの黒峰村の古民家、トタン屋根の元農家だった建物は写真から想像するよりもずっと大きく、照りつける真夏の太陽の下、黒々とした経年の佇まいも加わって威圧感があった。
ノックや呼びかけに返事がないので合鍵を使って出入り口の引き戸を開けたところで、孝史はふと自分でも思いがけず躊躇した。父をなんと呼べばよいのか一瞬戸惑ってしまったのだった。30歳になるまで、そんなよそよそしい関係の父子だった。
「父さん。孝史です。父さん」
建物のなかは真夏とは思えないほど涼しく、埃と藁と漬物が混じったような匂いがこもっている。
「父さん。父さん」
孝史は声を上げながら素早く土間からキッチンの辺りを見回し、それから靴を脱いで上がり框を踏んで、トイレと風呂場を確認した。脳溢血などでひとり昏倒していることをなにより恐れていた。
正吉の姿は1階から2階の全室を回り、さらに窓から外、首を伸ばして軒下を覗いても、どこにもなかった。建物のなかはどこも綺麗に片付いている。むしろ片付きすぎていて、そこに正吉が暮らしていた痕跡を消そうとしているようにさえ窺えた。
この家から数百メートル離れた、黒峰小中学校の廃校のひと教室を借りたアトリエにも正吉の姿はない。
さて、警察に届けたものか、とまた孝史は思案する。父、松尾正吉はまだ行方不明と決まったわけではないけれども、この段階で届けたほうが、つまり110番通報したほうがいいのか、と考える。
いつもの日常から少しだけでも逸脱した状況になるとまったくぎこちなくなってしまう。
警察には知らせたほうがいいだろう。しかし十数世帯しかいないこの集落には派出所などなく、直接届け出るとすれば、ずっと下って町まで出なければならない。路線バスは1時間に1本あるかなしだ。
110番通報から約30分後に巡査が2人、軽自動車のパトカーに乗ってやってきた。
「松尾孝史さんですか」
土間で待っていた孝史が答える間もなく、2人は家のなかに入っていく。
「お父さんがいなくなったのはいつからですか」
「母が最後に連絡を取ったのが8月7日です。連絡がつかない状況になっていることがわかったのは一昨日、8月23日になってからです」
若く小柄な巡査が黒い手帳に書き留め、中年の巡査は各部屋を覗きながらどんどんと奥へ進んでいく。
ひと通り家中を探索したあと、中年の巡査は上がり框に戻って吹き抜けを見上げ、それから土間続きの居間の突き当たり隅の襖を開けた。押入れになっている。
「いいですか」
中板に両膝をついて押入れに上がり、3、4度ガタガタと揺らすと天井板が簡単に外れた。奥から梯子が出てきた。
驚いている孝史に、隣に立っている若い巡査がしたり顔で頷いて見せた。
よいしょ、と掛け声をかけて梯子に取り付いた中年の巡査が、ご存知でしたか、と頭上から語りかける。
「知りませんでした」
「上がってきてください」
そこは広い屋根裏部屋で、軒下の窓から光が入って明るく、床もほかの普通の部屋と同じにしっかりできている。さらに驚くのは、太い木組みの格子で囲われた檻と思しき空間が全体の半分以上を占めていることだ。
檻のなかの床は他と違って黒く濡れたように汚れている。
檻の中心に太い柱が立ち、そこに鎖が何本も打ち付けてある。鎖のそれぞれの先にたぶん枷だろう丸い金属製の輪がついている。つまり何者かを牢屋に閉じ込めただけではもの足らず、鎖でも繋いでおいたわけだ。
「これは……、座敷牢ですか」
「見た目は時代劇に出てくる座敷牢そのままですけどね。あなた息子さんだからこの家の所有者になるわけですね。あとでちょっとお話します」
巡査は松尾孝史の父正吉がすでに死んだものと決めつけていた。
「変なことをいうようですが、お父さんはこの家のなかにいらっしゃるはずなんです。ここへくる道々集落の人たちに電話で聞いてみたんですけど、お父さんがこの家を出てどこかへいくのを見た人間はいません。路線バスの運転手もお父さんを見ていない、……」
母親がいっていた通り、この集落は監視が行き届いた極端に秘密主義で排他的な共同体のようだ、と孝史は思った。たとえば怪しげなカルト教団のような。
キッチンのテーブルに並んで座った巡査は帽子を脱いでひと息入れている。もしかしたら飲みものでもないかと冷蔵庫を開けると、皿に盛られた蕎麦と缶コーヒーがいくつか入っていた。
缶コーヒーをキッチンの流水で洗っていると、急に感情が高ぶってきた。
父正吉は銀行勤めをしていた40数年間、昼食には必ず行内の職員食堂でざる蕎麦を食べていた。だから家族みんな、自分と妹、そして母までも父は蕎麦好きなのだと思い込んでいた。
しかし、あるときひょんなことから、父は別に蕎麦が好きなのではない、という事実が判明した。嫌いではもちろんないけれども、ただ手早く食べられて胃の負担にならないというそれだけの理由で40年間も食べ続けてきたというのだ。
そしてほんとうは蕎麦が好きではないことがおおっぴらになったあとも、昼食には必ずざる蕎麦を食べ続けた。自分で用意してまで。
ざる蕎麦とともに生きた人生だった。いやまだ死んだと決まったわけではない。
中年の巡査が若い巡査になにごとか確認してどこかに電話をかけた。
「……、タイチさん。こんにちは。ご無沙汰しております。お元気ですか。すいません。また突然電話なんかしちゃって」
タイチさんはきっと耳が遠いのだろう。携帯電話越しに話す声がすべて聞こえる。巡査はタイチさんにこの家の構造を訊ねているようだった。シタクカンチというような言葉が聞こえた。
「……、はあ、母屋続きの納戸のね。納戸の下ね。……、一昨年この家に引っ越してきた松尾さん、その松尾さんの行方が分からなくなって息子さんが困ってるんだわ。……、だからもしかしてと思ってさ」
急にくだけた調子になって電話を終えた中年巡査の説明によると、問題は精神病だった。
精神病に対する理解も治療法の研究も進んでいなかった時代、たしか1900年に施行された精神病者監護法によって、一定の条件のもとで精神病患者を自宅などに監禁しておくことが認められていた。それを私宅監置という。
私宅監置といえば少し聞こえはいいけれども、実際は座敷牢に閉じ込めるのと変わらない。
しかし私宅監置には人手も経済力もかかり、また周囲の無知からよくない噂を立てられるなど、その家族も含めて忌避感、嫌悪感をもって扱われることが多かった。
そこでやがて、私宅監置の経験がある家、あるいは自宅から遠く離れて目立たない田舎の農家などに患者を預けるという方途が取られるようになった。
貧しい地域ではそうした患者を同時に何人も引き受け、預かり料などの仕送りによって家計を支える家も現れた。なかにはほとんどの家が患者を受け入れている集落もあった。ここ黒峰村もそうした集落のひとつで、だからここの古い家には座敷牢のような監置室が残っている。
私宅監置は不衛生になりがちだったり非人道的な扱いを生みがちだったので1950年に禁止されたけれども、実際はその後もしばらく続いた。
現在でも、たいへん稀にではあるけれども、私宅監置を疑われる家族による監禁事件が発覚することがある。
「この家には屋根裏のほかにもう1ヵ所、監置室があるらしいです」
年配の巡査は缶コーヒーを飲み干して立ち上がり、後輩の若手巡査にパトカーからカメラを取ってくるようにいいつけた。がっしりとした体躯の制服に汗が滲んでいる。
「お父さん、64歳でしたか。まだお若いのに」
だからまだ死んだわけじゃないのだから。
しかし孝史の父、正吉は死んでいた。母屋続きの納戸の床板の一部が持ち上げられるようになっており、そこから階段を使って降りていくと監置室で、その格子に外から寄りかかるようにして草臥れた姿で息絶えていた。
猛烈な臭気が鼻を突く。
しかし近づいて見ると正吉は格子の最上段に結んだロープに首を括れたままで吊られており、死んだ後の時間の経過に従い、自重によって首が長く伸びているのだった。
近くに椅子など踏み台になるものが見当たらないところを見ると、格子を数段登ってそこから宙に踏み出したらしい。
青黒く変色し歪んだ父の顔を目のあたりにしても、孝史は平気だった。感情が麻痺してしまったようだった。
若い巡査がしきりにカメラのシャッターを切っている。
そんなに生きることが苦しかったのかなあ。
ここの連中になにかされたのか。しかし具体的に自死の理由を考える余裕はまだない。
「お父さんに間違いないですか」
「はい。……死んだのはいつ頃なんでしょうか」
「それはこれから調べないとわかりません。ですからご遺体は一度こちらでお預かりします。御愁傷さまです」
年配の巡査は掌を合わせ、孝史の父、正吉の亡骸を拝む。
薄暗い足元をすばしっこく動いたのは、どこから入ってきたのかたぶんネズミで、その後を猛獣の逞しさと機敏さで猫が追った。
梢を渡る風のような音が聞こえる。
父の携帯電話とパソコンが床に立てかけてある。遺書はあのなかだろうか。その上に、ちょうどうずくまった大人くらいの大きさの黒い影が漂っている。黒い影はやがてゆっくりと地下室の奥へ滑っていく。
孝史はただ呆然と立ち尽くしている。
(了)
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