掌編小説●連作:不真面目な世界【首ったけの道】
高校の体育教師、盛山耕三が失踪する前日に生徒たちに語って聞かせた物語に失踪の秘密が隠されているらしい。それを再現してみる。
*
16歳の少年、白石倫也が外へ出てみると梅雨明けの空は明るく澄んで気持ちがよかった。しかし行く場所はない。見渡す限り新緑の田んぼが広がり、茶色っぽい屋根の住宅がポツリポツリと点在しているだけで人の気配すらない。
これが現実だ。
いまさら田んぼの水の中を覗いても仕方がないし、ととりあえず家の前の町道に出て高校とは反対の方向に歩き出す。
右手前方にこんもりと底の浅い碗を伏せたように丸く見えている雑木林まで行ってみることにしよう。そこはどういうわけか昔から田んぼの中にポツンと取り残されている町有地で、古墳ではないかと期待する噂もあったけれども、調べてみるとただの藪だったという滑稽な曰く付きの場所だ。世の中、面白いことはなかなかない。
雑木林を過ぎてさらにまっすぐ行くと同級生、中村聖子の家に着く。中村聖子、可愛い娘。突然訪ねていったらどうなるだろう。考えるまでもない。けんもほろろにあしらわれて明日から学校中で笑い者にされる。それが現実というものだ。
近付いて見上げる雑木林は思いのほかこじんまりしている。もっと大きくて鬱蒼としている印象があったけれども、これでは子どもが里山遊びをするのにうってつけの感じだ。あるいはそれ用に整備された公園になっているのかもしれない。
「あんたもかってもらいに来たのかい?」
しわがれ声に驚いてそちらを見るといつのまにか軽トラックが停まっていて、雑木林から出て来たと思われる老人が背負いカゴの中身を荷台に空けている。カゴから転げ出た茶色の芋のような物体は荷台に当たってゴロゴロと派手な音を立てる。
老人の言葉の意味がわからなかった白石倫也は曖昧な返事をしてその傍を通り過ぎ、雑木林の入り口に向かう。
雑木林の入り口には、以前にはなかった大きな石碑が置かれていて、その台座にいつのまにか白っぽい着物姿の侍が腰を掛けている。眼に入った瞬間、誰かに似ていると思うのだがそれが誰なのかわからない。
侍は見るからに浪人の風体で刀を肩に担ぎ、着物の裾を割って猛々しく足を組んでいる。隻眼隻手である。異様なほどに眼光鋭く、顔の右側に眼窩をまたいだ大きな傷痕がある。荒涼としたその顔に目を据えて、白石倫也は自分は夢を見ているのだと確信した。
白石倫也は夢の最中にこれは夢だと自覚することがしばしばある。そして夢のなかでかなり自由に意思をもって振舞うこともできる。たとえば高いビルの屋上から飛び下りたり、走ってくる自動車に飛び込んだり。もちろん怖いことは怖いが夢の中だからと自分にいい聞かせて踏み出せば何事もなく目的の場所に辿り着くのだ。人を殺したことはまだない。
高校の同級生たちに聞いても同じ経験をしている者はいないからたぶん特殊な能力かとも考え、みんなが自分と同じように夢を自覚し、夢の中で行動できたら自殺など減るのではないか、と考えたりもした。しかし現実と夢の境界が曖昧になれば逆に死んでいくヤツは増えるのではないか、とも思う。
「とうりゃっ。……、っていっ」
気合の入った掛け声があたりの空気を裂き、振り向くと侍が竹を袈裟懸けに一刀両断していた。竹は血のように赤い色をしていて、斬られた節の断面からは血のような液体がどくどくと溢れ出している。そもそもこの雑木林に竹など生えていなかったはずだが、と顔を上げると斜面はすっかり竹林の様相を呈している。青々とした竹のところどころに真っ赤な竹が混じり、その中にさらに黒い竹もある。
縞模様の中を侍が走る。
「おうりゃっ。こなくそっ」
錯乱した形相の侍が片手で切り倒した赤い竹はそのままストンと地面に落ちて突き刺さる。赤い竹になんの恨みがあるというのだろう。侍の下半身は赤い飛沫にまみれてドス黒い。
柔らかな竹林の土に足を取られて白石倫也はズルズルと斜面を滑り降りた。下を見ると獣道程度の細い道が円を描いて迂回している。そこに点々と転がっている丸い形のものを最初は石だと思ったのだけれども、よく見るとそれは人の生首なのだ。
白石倫也が慌てながらようやく道まで降りると、その首が一斉に振り向いてギャーギャーとけたたましい悲鳴を上げる。土と血にまみれて汚れ、もはや男か女かも区別できなくなった生首が大きな口を開けて叫ぶ。
そろそろ目が覚めてくれないでしょうか、と胸の内で祈りつつ、白石倫也は道の向こう側の坂に身を沈めた。
このまま下まで転がっていけばいい。
生首の叫びがさらに激しくなって、ほとんど悲鳴になる。竹林の間の細い道を登ってくる人影がある。大鎌を持ち、まるで雑草を刈り取るように生首を刈っている。その後ろに、あの軽トラックに荷物を下ろしていた老人が大きなカゴを背負って従っている。大釜が刈り取った首を拾い集めている。坂の勾配と背負った生首の重さでいまにも顔が地面に着きそうなほど前屈みになっている。
老人のゴム長靴が目の前を通り過ぎ、カゴのなかで斜めに詰め込まれ歯をむき出している生首の血走った目と視線があったとき、猛烈な恐怖が背中から後頭部を貫いた。
老人が小型トラックの横で話しかけてきた「あんたもかってもらいに来たのかい?」とは、首を刈ってもらうという意味なのだ。
全身が逆立つとはこのときの白石倫也のようすだろう。
「丹下左膳の旦那が、斬った赤竹の切り株に串刺しにされとる」
「早く首を刈ってやらんと、すぐに空まで持ち上げられるぞ」
頭上で首刈りの2人がのんびりした調子でやりとりしている。
立ち上がり、傾斜を一気に走り降りようとしたけれども、土の下を縦横に走る竹の地下茎に足を取られて激しく転倒し、地面に打ちつけられる。痛みが全身に広がる。
夢のはずなのに。
「お、……おのれ、無念じゃ」
侍の断末魔が聞こえ、それを合図にしたように白石倫也ががむしゃらに立ち上がり、もんどり打って倒けつ転びつしながら自宅をめざして走り出す。
気づくといつのまにか竹林の土を固く握り締めている。そのせいでギターを弾くために伸ばした右手の爪が全部欠けてしまった。
平日の午後、自宅までの町道に人影はなく、ただ1人だけ短いスカートをはいた場違いな感じの女がしゃなりしゃなりと背中を見せて歩いている。追い越しざまに脚を見ると、右の膝小僧が後ろを向いて付いている。左脚は前向きだ。だからしゃなりしゃなりと歩いているように見えたのだ。
なんてこった。
もしかするとこの女は中村聖子かもしれない。疑念がよぎったけれども振り返る余裕などない。
息を切らせてほうほうの態で自宅前にたどり着き、門に飛び込んだ。助かった。玄関のドアを開けると、しかし目を疑う。なんとそこはまた竹林だ。赤い竹が家の中にまで入り込んで繁茂しているのだ。窓を塞ぎ、天井まで伸びて頭をつかえさせている。
地下茎があの雑木林からここまで這ってきたのだろうか。
「竹が伸びるのは速いからねえ」
呆然としているうち耳に入ってきた聞き慣れた声に振り返ると、死人のように白い顔をした母親が立っている。
「そんなに泥を付けてどこへいってきたの」
いつもの、そして家を出たときと同じ服装の、まったく表情のない母親の顔を見ながら、咄嗟に、もしかするとこれは現実なのかもしれない、もしくは夢であっても永遠に醒めない夢なのかもしれない、と頭をめぐらせた。
白石倫也は激しくおびえていた。
(了)
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