2023.12.18(なぐり書き)

大阪に行ってきた!しかしいろいろ面白いことがありすぎて、それらを順番に書いていくだけでも日記が終わってしまうし、そういう書き方は自分でつまんなくなってくるのは経験上わかっているのでできるだけすまい(だが、書いているうちなんとなくそういう方向に入りがちだというのもまたわかっている)。日記もそろそろ200本に近づいていて、まあ最近Threadsの抜書きを載せるようになったりとか若干ずるをしている感もあるが。なんだかんだでノウハウが蓄積されているということか。このノウハウとは文章のノウハウではなく、自分が気持ちよくダラダラ考え続けるためのものである。

研修を担当しているおじさんのPCが朝一でいきなり起動しなくなったらしい。勘弁してほしい。とりあえず分解して放電を試してもらう。ほかに壊れる理由もないしたぶん大丈夫だと思うけれども。それで交換とかになったらまた仕事が増える。

きのう帰りの新幹線で、寝付けないので、なんとなく持ってきた東浩紀『ゲンロン戦記』を読んでいた。これが思いのほかおもしろくて、半分くらい読んでしまった。俺は哲学徒ではないし、『動物化する~』とかは買ってみたけど訳が分からなくてそのまま。で、こういうビジネス書/自己啓発本/エッセイ仕立てみたいな本ばかりつまんでは読んでいる。『ゆるく考える』とか。

先日も書いたけれども自分はものの考え方が結構実際的(あとから加筆:世俗的といったほうが正しいかもしれない)なほうで、それはなんだかんだで父親が中小企業をやっているような人で、自己啓発本の類をよく読まされた影響がけっこう大きい気がする。そういうのが恥ずかしいという意識はいまだにちょっとある。おれの子供の時からの「頭のいい人」のイメージとは、難しい本を部屋中に積んで、座卓で片肘をついて苦虫を噛み潰したような顔をしている人、だった。まあ、今になって、俺はそういうタイプじゃないということがわかってきたし、それで納得してやっていこうという気も起きているが。

だからか観念的な考え方をする人に会うと憧れと嫉妬のようなもので怯えてしまう。こんなことを書くのも、今俺は実際的な、身体的な感じで生きようとしています、というのを自分に納得させる作業でもあり、勝手に負い目に感じていることへのいいわけでもある。私はこういう風に生きようとしてあえて書いていますが、それは観念的な方への攻撃ではないのです、という。だれも気にしてないのだが。

しかし同時に、身体的な頭のよさ、というのか…いわゆるストリートスマートみたいなのにも憧れをいだいている。まあざっくりしたラッパーのイメージだ。こうしてみると俺は今書いた二つのどちらでもない。言葉の世界で深みに潜っていくことも完全に割り切ってメイクマネーしていくことも今はできずにいる。でも、どちらも俺には向いてないし、なんだったらやりたいことでもない、というのもまた結論だ。どちらを目指しても自分の肌に合わず精神をおかしくするだろう。

まあそうすると、「自分に合ったことが一番」みたいなありきたりの言葉に集約する。でもなんか、ここ2年くらいを通して「自分に合ったこと」というのがだんだんわかってきた感触があって、それが最近の一番大きな学びなのよね。人は変わることはできるけれども全く違う人間にはまたなれない。がらりと変わったとするならそれは自分の本質的にやりたかったことに気付いたからなのだ…こういうと、たまに引用する「分人主義」と矛盾してしまうな。「本当の自分」みたいなのがある、という論調になってしまう。まあ正直、実感としてはどっちでもないのだけど。

変な書き方になるけど「大きな自分」と「小さな自分(エゴ)」みたいなのがあるという世界観も俺は持っている。もっと胡散臭い言い方をするなら「魂」とか、「大我」「小我」みたいな。それとも「深層意識」と「表層意識」だろうか。ああ。もうすごく自己啓発本っぽくて、こわくなってくる。

でもまあ、シンプルに音楽をやっていてそんなことを感じることが多い。よく書いているけど、ソロで「次はこれをやろう」とか「この技を入れてみんなを驚かせてやろう」みたいなことを考えた瞬間、音楽的でなくなるというような。それは小さなエゴにとらわれて、大きな自分の表現ができなくなっているのだと俺は理解する。わからんけど演劇をやる人もそういうことを感じたりするのではないかな?

自分は言語的な人間だと大学くらいまで強く思っていて、だからこそ日記にギターの演奏についてながながと考察(ともいえないようなものがほとんどだったが)を書くことでなんとか本質に近づく、近づかなくても「語り得ることを語ることで語りえぬことの輪郭をつかむ」(ドラえもんのコラ画像で見た言葉なので誰が言ったかも知らない)ことをめざしていた。結果的にはそれでは同じところをぐるぐる回っているだけでやはり前には進めなかった。それから数年後に師匠に出会って、実際にブルースそのもののやり方、やっている時の音、を生で聴いて、で、やっと次のステージでものを考えられるようになった。

言葉で考えるのが無意味だとはもちろん思わないけれどもやはり言語とは記号であって、音楽という現象そのものを完全に表すことはできないというのがそれ以降の2年くらいであらためて感じたことだった。それは師匠であってもむずかしいことで、じっさい言葉ベースで教えてもらっていたころと、実際に一緒に音を出して教わるようになってからだと4,5倍は俺の理解の進みがちがった。レベル(階層)を上げてから、言葉で整理するというのはありだし、やろうとしていることでもあるけど、でも根本的なことはやはり言葉にはできない。成長というものに段階があるとしたら、言葉にできるのは最大でも今いる段のことまでだ。上の段については上るまでは想像することしかできない。

大阪に行ったって導入から何でこんな話になるんだ?

さっき煙草を吸いに行って思ったが、おれは実際的とか言ってきたけどたぶん「世俗的」なのだろう。たとえば「縁」みたいな概念も結構信じてる。おれの考えって、ほとんど人生論みたいなもんであって、それはおっさんなら誰しもそれなりに持っているようなものだ。自分をとりまく世界のすべては乱数という観方だと訳が分からなくなるから、自分なりのナラティブを導入する、構築するというのがまあ俺のやっていることだろう。そこに確かな根拠はなくて、すべては経験則で、経験則というのもまた解釈である。

さて、まあずいぶん書いた。薬飲んでるからだろうな。まあ薬飲んだ程度でこんなに頭の働きが違うのなら自分ってなんだって話で、そうすると自分というものもまたあいまいになって、それを整理した気になるために物語を作ったりなんだりしている。

はああ~~~~

大阪から帰ってきて翌日に出社。面倒を見ているおじさんのPCは故障。案件は仕事増えるしいまいち進まない。かなり八方ふさがり出していて、なんなんだこれはと思っている。何でこんな目に。その割に長文書いてる。しょうがないだろう。きついんだこっちは。

Johnny 'Big Moose' Walker(シカゴのブルース・ピアニスト、オルガニスト)の略歴を訳そうと思っていたがそんな暇はない。日記は書く暇あるのか?ない。ない。ないが書く。そうしないとつらいから書く。

こうやってまくしたてるように文章を書くと畏れ多い話だけど舞城王太郎とか村上龍の文体のことを思い出す。思い出すだけで、似てるとかそういうつもりではない。なにかケミカルな、あるいは躁的な印象をもっていたような気もするがそれはやはりそうだったから、そうだったのだろうか。自分はいまかなり、薬によって書かされている。あるいは薬によって書かされるものだと思い込んでいる。ああ。うーん…。一度落ち着きたい。こういう勢いに自分の身を置いているだけで疲れてしまう。

…。

……。

ん~。

意味あるんかなと思いながら数回深呼吸をした。こんなこと書きたかったんだっけ? 普通に大阪のこととか書きたい。でも昨日話してしまって、結構満足したっていうか。大阪のブルースも観た。東京より良かったけど、それはそれで違った形で間違っていた。でもやろうとしてはいる。しかしその方向がブルースそのものとはずれている。だいたいその感想は師匠と一致した。「まあそうなんよな」。

いまさらだけれどやっぱり「師匠」って言い方はあんまりよくないし、しっくりこない。彼もそんな呼び方は望んでいないし。でもイニシャルで載せても関係性が見えないし、仲間というにはまだ教わることが多い。先輩というにはちょっと年が離れている。メンター、が一番適切だけれど、なんか感覚的にぴったりとはいかない。横文字がそんな好きではない。

彼は今は教えてくれているし、ブルース理解の面ではとうぶんは俺が並び立つことはないだろうけど(歴も違うし)、それでも何年か後には対等に意見をしあったり演奏で試行錯誤することができる仲間になるはずだし、お互いにそれを望んでいる。では仲間か。うーん?まあ、別にそんなに読まれているわけではないわけで、俺がイニシャルで書いたらまあその人だろうということはなんとなく読んでくれてる少数の人なら把握はしてくれるだろうし。ただそれもしっくりは来てない。兄弟子? 兄弟子は状態として近いが別におれたちはブルース道場をやっているわけではないんで…。

日本語でmentorに当たる言葉ってほんとはないんじゃないか。だからカタカナにする。師匠と弟子とか、兄弟子とか、いろいろあるけどどうしても心理的に対等ではないというか、儒教的な上下関係のイメージが付きまとう。生徒、ではない。別にteacherとstudentでもないのだ。

まあなんでもいいか。

仲間という単語が出たんで、そういえば最近、仲間と友達って違うなとか考えたりしていた。友達はどんなんでも友達ではあるけど仲間っていうのは同じ目的とかプロジェクトのために共闘するってニュアンスがある。たとえば俺と'師匠'は友達であり仲間でもある。これまで俺はその辺の区別がいまいちついていなかったなと思う。友達であることのできるミュージシャンはいっぱいいるけど、仲間にできる人はほとんどいないと今年になって気が付いた。それは実力とかやる気みたいな平面的なことではなくて、もっと複雑なものだ。まあそんな仲間になりうる人も、ある時急にふらっと現れるものなんだろう。俺と'師匠'とて、なんかほんとうにたまたまリモート飲みで一緒になっただけだし。それは先輩の配慮なんか保身なんかやさしさなんかよくわからないムーブで起きたいわば誤配だった。

誤配というのは例によって東浩紀がよく言う言葉だけれど哲学上の意味ではよく分かってない。いまは、ただ偶発的なこと、という風に使った。俺はそうやってしか彼の本を読んでなくて、だからたとえば訂正可能性の話も「まあ人間だし間違うことはあるから、それは逐一直していこう」みたいにしか理解してない。それはもはや飲み屋の人生論みたいなレベルのものとしてしか読めてないということで、哲学とか言論の世界でどうあるべきかってことはよくわからない…。でも、ふざけるなという人がいるのはわかる。哲学は哲学で、人生論じゃねえだろ、とか。俺だってブルースというフィールドで適当にやられてこれもブルースだと言い張られたら怒る。こういう理解の仕方が世俗的ということだろうか?

鶴橋のローカルな喫茶店で、おばちゃんというにはまだ若い三人組が関西弁独特の声高な調子で夫とのセックスレスの話をするのをきくともなしに聞きながら友達といろいろ話した。「横浜生まれとしては、神戸の人の屈折したプライドはよくわかる」とか。俺も会社の同期にかつて神戸の人間がいたのだけど、彼は別に自分がおもしろいわけでもないのに人の笑いに厳しかった。「東京ではないけど近いし、なんなら洒落てるし」みたいな自意識の在り方が似てるんじゃないかみたいな。「千葉の東京寄りの人はなんかスネてるよな」とか。「大阪の人ってとにかくノリ、グルーヴみたいなのをキープし続けるっていう笑いだけど、関東――というかネット(オモコロとか)の笑いは何か前提の外からものをいうとか、裏返すみたいな笑いで、それは文字ベースのネットだとグルーヴもなにもないからこそそういうのが発展したんじゃないか。で、それはすごく関東的なんじゃないか」そんなの人によるってのは分かってるし、なんも根拠はない。でもこんな話をするのは楽しかった。

大阪ってまじで異文化だ。関西弁っていうけど、声の出し方から違うと思った。師匠は大阪の、それもかなり濃いエリアの出身だけれど、「(自分含め)西の人は喉をしめて喋る」と言っていた。実音と倍音でいうと実音で人の耳にねじ込むようなイメージ。俺の声は倍音が多いらしい。だからか録音で聞くとけっこうもそもそしている。

演奏もぜんぜん違った。さっき少し書いたけど。関東のブルースは譜面的というか、フレーズをなぞることに終始してしまっているような人が多くて、その中でうまさを競い合っているようなイメージがあるけど、俺が観た大阪のブルースバンドはとにかく感情をぶつけるためにやっているという感じだった。どっちがいいか?俺は後者だと思う。でもそのやり方が、ベクトルが本当のシカゴブルース(50~70年代のレコードで聞けるような)とは異なっていて、志はいいけどやっぱり違う、ということになってしまっていた。師匠が「せっかくだから観てきたら」といったのは、大阪のブルースっていうのもまずはそういうもんだというのをとりあえず理解したらどうかということだったのだなと思った。大阪のブルースは二曲でおなかいっぱいになる。とにかく感情で殴られ続けるような感じで、それではHound Dog Taylorがやってたように一晩中客を踊らせ続けるということは無理だろう。もっと細かいことを、根本的なことを、きちんと詰めていかなければならない。でも、再三いうけど、東京よりは大阪のほうがいいと思った。バンドの各々が言いたすぎてグチャグチャになってるけど、そもそも言いたいこともないような演奏よりはずっといい。

だから、無理やりシットインしなくてよかった。その場で目立とうと、逆に目立つまいと、どうせ悩んだだろう。いずれであっても軸がぶれてしまう。もっとガンガンやったほうがいいのかと。飛び入りしなかったから、こうやって距離を置いて見られているわけ。そういう意味ではやっぱり観てよかった。消去法的に、自分のやりたいことの輪郭をはっきりさせていけてる。

しかし、ああやって自分の言いたいことをずっとぶつけ続けるってのは体力がいるよね。演奏してた人自身、「途中から自分でゲーてなってもて」と言ってた。あのやり方では、歳をとるごとに衰えるということになる。ロックは大概の人がそうだけど、ブルースなら歳をとるごとに表現が深くなっていく人はたくさんいる。だから逆だ。逆を目指さなきゃいけない。

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