2022年の日記

インスタに載せていたらしいもの.

急に短歌を作りはじめた

2022.5.23
カメラ持つ従兄弟は我に似て太り葬式弁当の鮪が黒い
スタッフが小さく笑う神妙に大きな骨をおさめたあとで
ギター弾くこの手は母に似たりしか車椅子押して思うそのとき
2022.5.27
喫茶店で煙草をふかすそのときも鳴りやまぬのは胸のさざなみ
貧しても殴られてもないこの俺の歌うブルースはどこにあるのか
ふるさとは山のあいだのコンクリートなまあたたかい風吹きとおる
訳もわからず泣く碇ゲンドウの独白聞いて
仕事が忙しいのはもうわかった遅刻してくる友達に思う
通気口のなく声を聴くひゅるひゅると換気扇下たばこ吸うとき

・初期のビートルズのキャッチ―さはあの、下手したらその辺の高校生よりストレートでシンプルな歌詞がなんかかわいくて、なにより覚えやすい(歌いやすい)ことも大きな要因だよな

・意外とSteve Lacyの歌詞なんかもそうだと思う

・「Something bad is about to happen to me...Don't know why but I feel it comin'(だっけ?)」って、青臭い感じがするとことか、いきなり「I want to see you girl」なんて歌いだしたりするとことか、かわいい!と思う。そういう感じは白人のティーンがやってるロックンロールバンドにもある要素だけど、それをこういうセクシーな音楽をやってる人が持っているというのはいわゆるギャップ萌えかな

 彼は23とか4のわりには大人びて見えるしファンキーな変な服着てよく出てくるけど、お客さんの女性が黄色い声をあげているのはその辺もあるような気がする

・一番はコーチェラで見せたあの溶けそうにメロウなグルーヴだと思うけどね(レコーディング版はいい意味で宅録の感じがある)

・おれが詩を書くとしたらきっとなんかもうちょっとわかり難いものにすると思うけど、本当は「Only you, babe,only you, my girl,only you,babe,only you,darling...」なんてことを堂々と歌える人になってしまいたいような気もする

・田島貴男みたいになったら嫌だな

・といえば、Steve Lacyは歌い方が地声っぽくてさらっとしてるのもいいよな

・田島貴男ほど歌い方のねちっこい人を知らない

・歌、ほんとはもっとやりたい

・たま~にきれいに響かせられることがあるので、本当にいいのはがなるとかよりそっちの方なんだろうけど、やってる音楽的にどうしても汚めの歌い方にしちゃうね

・曲を作りたいという気持ちはあるが詩を書くのがどうにも苦手なのと、一人だとやることが多くて作業工程をまとめきれないのがあっていまだにできていない

・まえに内輪のコミックソングを作っていた時は詩は外注できたし、ベースは弾いてもらえたし、なにより雑でもさっさと作って出そうって意識でやれたからとにかく進められたけど。

・まあ、それにしたってよく20何曲も作ったな

・多分手順が確立出来たらいいのだろうけど、そこが苦手なのは。。。音楽の能力というより、仕事とかに近いなあ

・おれがエルモアを歌えるっていうのはまああくまでシャウトできる、それなりの音程についていけるっていうだけで、本当の意味でエルモアを歌えてるわけじゃないんだよな。
Dキーで歌うとちょっと高くてつらい。本人もDから4分の1くらい下げて歌ってることがあるし(たまたまかもだけど)おれもD♭くらいで歌った方が本当は良いのかもな。

・Brewer PhillipsもDより低いことがあるし、D♭チューニングでやる人になるしかないのか。Robert NighthawkなんかもE♭とかでよく歌ってるけど。セッションだとめんどくさいんだよなあ

・いつか自分のバンドを持ったらその辺も実験したいな

・と、思っていたら、「たぶん倍音でチューニングしてるからだけど、キーがE♭でもチューニングはD♭だったりするよ。」みたいな話を聞いて余計わからなくなる
 適当にチューニングしてるわけじゃないのか。。。

・せんとくんって出たとき「変だ」ってすごいネタにされたし、なんならデザイン会社の癒着が疑われて叩かれたけど、結果あれだけのみんなの記憶に残ったっていうのは「勝ち」だったのかな

・などと思っちゃうのは「左ききのエレン」読んだからだと思う。

ツイート2
・ツイッターのかわりにと始めたこのメモ帳ツイート集だけど、まあツイッターそのものほどはのらない。やっぱり即時にどっかにアップロードされることに意味というか、甲斐があるのだなあ

・そう思うとツイッターはつぶやきとか何とか言っててもソーシャルネットワーキングなんだな。コミュニケーションのハードルを下げているだけで

・見る人を想定しているからこそのモチベーション

・前にGravityっていう、タイムラインが完全にランダムに構成されるSNSをやってみたことがあるけどつまんなくなってやめてしまった。

・いやどうだろう?むしろハマりかけたのが怖くなってやめたような気もする。

・「優しいSNS」と標榜していたけど、知らん人からのいいねはくるし、かえってツイッターの点取りゲーム的な側面に純化しているような気味悪さが感じられた

・まあでもそんなことを感じるのはおれのような人だけかもしれない。そもそもそういう使い方をしがちな人はどこ行ってもそうなる、というだけかも。ウッ

・Gravityをやって思い出したのは、メンタルに不安定なものを抱えるティーンがLo-Fi Hiphopのチャット欄に集まって誰にともなく悩みを書いたり励まし合うという話だけど。なんかでもちょっと違うんだろうな。チャットはチャットだし。

・高校のころ、何とかっていうランダムなチャットで知らん高校生の(今からすればどうでもいいような)悩みを聞いたりしたっけな

・ニコニコとかがよかったのは親の目の届かない世界とか価値観を同年代の子と疑似密室的に(そんな言葉はないと思うが)共有できたことで、自意識過剰ぎみの歌詞とかあのせわしないアレンジとかはそういう理由で発展していったのかな、なんてことをたまに話す

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・青森はとにかくよかった。土、水、空気が良ければ飯はうまくなるのだという原則をみたきがする
・それに広々とした土地、空、木々といったものがどれだけ人の精神をくつろげるか。

・こんなことはみんな言ってることという感じがするけど、実際体感すると言いたくなるものなんだねえ。

・青森に居を構えて、翻訳か、なにかわからないが、そういう在宅でできる仕事で収入を得られたらいいなあ。それさえできたらどこにだって住めるだろ、って話ではあるけど。

・あと問題は、ブルース・シーンがなさそうなことかな。。。

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・なんとなく、自分は文章がうまいという意識で生きていて、なればこそインスタにこういうことをごちゃごちゃ書いたりもするんだけど。たまにうまいな~って文章を読むとあ~あ、おれなんて何でもないじゃん、って思ったりもする。語彙すくね~とか。

・こないだ奥入瀬渓流の公式サイト?のコラム読んだら、なんとも知的、かつユーモラスな筆致でいきものの生態について書いてて、ううむとうなってしまった。そういう文章なのにクレジットすらない。ああ、世間にはうまい人がいるもんだなあと溜息をついた瞬間。。。

・もっといろいろ読まねばねえ。

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・ある国の消防士はとにかく本を読む、なぜならいざ目の前に危機がせまった時、その、判断力を超えた状況を整理することに言語能力が必要だからだ、という話をどっかで聞いたことがある。

・おれはこの話が好きだ。なんでかっていうと、音楽でもそれができるよね、と思っているから。
本来的には感覚でやることにはちがいない。でも、たとえばそれについて共有して、議論して向上させようというとき、テレパスでない我々にはまず言語で説明する必要が生じる。

・それは一人で習得を目指すときも同じで、正しく選別して蓄積するには何らかのラベルが必要。

・もっとも、向こうのひとはそういうことをとくに考えないというけど。たぶんそれは、「できている人」と実際に音を合わせる機会が当たり前にあるから必要がないんだと思う。

・こっちでやるにはなるべく情報を集めて、自分で一生懸命理解するなり、共有して集合知を得るなりしないと厳しい。

ツイート

・【おじいさんのSharePoint】シャァアポイント

・Netflixでパンダコパンダをちょっと流し見たことがあったんだけど、一人暮らしをすることになった小さい女の子の家におじさんの声の巨大なパンダが住み着くっていう設定(を宮崎駿が描いていることも)が怖くてやめちゃった

・むかしはツイート単位でものを考えすぎていたなあ
思慮が足りなくてすぐ怒っていたのはそういう影響もあったんじゃないか

・同窓会なんかに行くと当時のノリに戻っちゃうみたいに、その人とかかわっていたころの自分に戻っちゃう相手っていうのはいる
その自分が好ましい人格ならいいけど、未熟だったりとかあんま思い出したくない感じだと、
だんだんその人とも会いたくなくなってくる…

・というわけで、友達、というか人間関係はある程度更新しちゃうもんだと思う(身勝手ではあるが、みんなそうじゃない?)んだけどいざ自分が距離置かれて、「あ、更新されたな」って気づくとまあさすがに悲しい
そうだろうなと思うような自分だったんでしょうがないが

・【おじいさんのピュア】プアアー

・おじいさんといえばこの間10年ぶりくらいに葬式に出たのだけど、人って死ぬとあんなに小さくなっちゃうんだねえ

・葬式弁当のマグロが黒すぎて笑ってしまった

・15年くらい前に父方の祖父が亡くなった時に食べた寿司もやはりマグロが黒くて、そればかり覚えている

・人が焼き場に入っている間に飯を食うって習慣が子どもの時には理解できなくて、何か薄気味悪いような気持ちでその寿司を食べた
・そういえば焼き鳥を焼く場所も「焼き場」って呼ぶ気がするけど、いいのかな?

・いいのか

・なんか、だから仕方ない、ということではないんだけど、やっぱりちょっと俺は「こうしたらこの人困るかな」とか、「がっかりしちゃうかな」とかそういう想像力が乏しい傾向があるんだなあ。空気が読めないというか、自分しか見えてないというか…。マシにはなってきてるんだろうけど、たとえば連絡一つのタイミングを相手はあとあとどう読み取るかという数手先の空気が全然読めなくて、「まあ、後で送ればいいか」ってなってしまう。複数の「こうしたらこうなる」が、なんか統合しない…。

・なんで相手が怒ってるのかは一応言われたら「そうだった~~!」って感じでわかるので、都度勉強していけばいいんだろうけど、普通にちゃんと落ち込むよな

・勤務先の向かいのコマツビルに「地下商店街」があって(今はシャッター街のようなもの)そこに残っている「シーザー」ってところがめちゃくちゃよさそう。いわゆる昭和な内観、昔の喫茶店そのままの洋食、そして喫煙可。気づくのが遅かったなあ。

・別にめしを食いながら煙草を吸いたいとはそんなに思ってないのだが、喫煙可の飲食店を見つけると嬉しいのはなんだろうね。単に吸えるからというより、なんか失われた居場所を見つけたように嬉しい。とくにこういう古いところは、見つけた!て感じがあるからね。

・わかっている人とバンドをやったり、教えを請わなきゃならないのだが、なんというか、前提の部分から間違っているけど高名な人もいるし、おじさん同士でも前提部分から意見が、食い違うならまだしもいいけどすれ違ってるような場合が多くて、若者としてはやりにくいんだよな。

・二三夫さんバンドって二三夫さんがすごいだけで(すごいだけに、というのが実相かもしれない)バンドとしては全然だめだ。めちゃくちゃと言ってもいい。3か月ほど前にはわからなかったけど今はわかる。

・バンドがひどくても持っていける、ていうのは紛れもない実力だけど、どうしようもない演奏も二三夫さんが吹いたら盛り上がっちゃう。だからバンドは、なんか何やっていいかわからないまんまになってしまっている。

・あえて説明することは少ないけど、なにかを知識とか技術として理解して、自分なりの体系を作るって作業はべつに楽ではない。

・自分の「聴き方」をいちど破壊して、新しい価値観を導入する、なんてしちめんどうくさいことを絶えずやるのは、音楽が好きで、なればこそそこに留まっていたくないからだ。

・自分の中での「音楽」の見方を更新する。千葉雅也の『勉強の哲学』の言い方を借りれば、これは自己破壊だ。次のノリに移行することで、自分がそれまで楽しめていたノリにノれなくなるリスクをわざわざ背負うということ。

・知りたいこと、できるようになりたいことはまだいくらでもあって、たぶんいまの俺が想像もできないような課題もたくさんある。それらを実現するには時間がいくらあっても足らない。本当は。

・でも、好きだったバンドが聴けなくなった、ということを嬉々として話している(ように見える)のははたからみると異様かもしれない。
 そう見えるとしたら、たぶんそれは、自分の中の「音楽」が更新されたことの証左になっているから、だと思う。

・これ、わりと説明難しくて、おれもわかんなかった時期長くて、ともすれば自意識とかマウントみたいな文脈で語ってしまうこともあった。でもそれは、本当に理解されてないとしたら、マジで上手くないやり方だったんだろうな。うーん。

・まあ、おれは人の聴き方も(今後は)否定しないから、俺の聴き方も、まあ理解しなくていいけど、そういうもんなんだな、と思っておいてほしいと切にねがう。

[2022/1/17(月)]
・どうでもいい話なのだけど、ブルースセッションに来てはサニーボーイ・ウィリアムソンIIの「Help Me」を「キューティハニー」の歌詞で歌ったり、ジミー・ロジャースの「Walking By Myself」を「三百六十五歩のマーチ」で(行進の振りをしたり、もうそれはすごいテンションで)やったりするすごいおっさんがいる。
 最初こそうるせえなあ、と思ったものの、今はむしろ興味が出てきている。自分もやってみたいということではない。どうしてわざわざそんなことをするのか?を解剖してみたいのだ。

・なにしろその替え歌、別に面白くはないんだよね。
当人は「中高年ですから」「若い人はドリフなんてわかんない」を連発しているけども、正直いってセッションに来ているおじさんたちでさえそんなにウケてないというか、「ああ、この人が来たからからかってやらないとね」ぐらいのノリで冷やかしてやっているという感じである。
若い人ったって、今時YouTubeもCSもあるし(おれとて子どもの時はずいぶんドリフを観たよ)
テレビでも「昔はよかった」的に定期的に再放送やら「昭和の歌」を流すんだから、別に知らないわけでもない。

・唐突だが、以前ジェンダーの授業を受けたときに、男は男同士で下ネタを言い合うことによってアイデンティティと連帯の確認(女性の排除)を行い、同時に同性愛者「ではない」という確認(同性愛者の排除)を行っているという話を聞いた。(本筋と関係ないけど、昭和への憧憬は最近のコンプライアンスとかPC重視への反発というのもあるのだろうね。)
 ここから連想すると、彼は(その世代の人でもふつうやらないくらいの)強烈な世代ネタによって、若い人「ではない」というアイデンティティを確立しようとしている、と見ることもできる。

・そういえば、2年前くらいに会ったとき、タバコを吸いながら「俺は歌手や。俺の子どもの時はボーカルなんてシャレた言い方はせんかったで」みたいなことをいうので、合わせるつもりで「へえ~じゃあバンドじゃなくてグループサウンズなんて言ってたんですか?」と返したら、急に「そんなに古かない。あんまり知ったかすると嫌われるで」などとのたまわれたことがあった。
え?と思ったけど、ひょっとしたら彼が作り上げた「世代」の世界に若いのが入ろうとしてくるのが愉快じゃなかったのかもしれない。
 GSより新しいとしたら、あんたも「東京ブギウギ」の世代でもないじゃん。とツッコみたい気持ちになる。
 なんとなく彼の「昭和」の世界観というのはいびつな感じがする。時代の統一感がないし。ただその時代を生きてきた人というよりは、戯画化された「仮想の昭和」を作ろうとしているような気さえする。

・仮想といえば、強い関西風なまりとヨシモト的ノリを(異様に)強調するわりに、「もう関西人じゃあらへん、何人やら…」みたいなことを何度も言っていたのも気になった。いつから彼が関西を離れたのかは定かではないが。これも同じようなことかもしれない。彼が本物の大阪人の前でどういう態度となるのか、非常に気になるところではある。

・それか、まじめにブルースをやることができないというコンプレックスか。「ちゃんとした人」ってめちゃくちゃ言ってたもんな。本当にあの方向でやりたいならブルースセッションなんかじゃなくてオープンマイクとか、いやむしろどっかのスナックに行くのが一番よかろう。もう行ってるかもしれんけど。

・まあ、他人に「キャラが立っている」とか「面白い人」とされている人はえてして、いくえにも反転した自意識を持っているということだなあ。いや、ここまで好き放題想像で書いておいてまとめるのもひどい話だけど。はたして、彼らが実際欲しているのは、自分の作り上げた虚像への承認でいいのだろうか。

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