2023.3.18(令和五年に「昭和」のセンスだけを抽出できるか)

昨日は日記をさぼってしまった。なんでさぼったんだっけ?

後輩たちと飲みに行ったのだった。
恵比寿のかなり独特なお店で、入った瞬間「うわっ」と声が出そうになった。もちろんいい意味でだが。まず真ん中に置かれた大きな白いグランドピアノ(よく見るとRolandの電子ピアノ)が目に飛び込んでくる。そして左を見やると六十年代のジュークボックスがある。全体的にアイリッシュパブのような、古めかしいレストラン・バーのような内装だが、飾り窓(地下なので、奥は壁になっている)には地中海風の風景が描かれている。その前にはウイスキーやワインから、紹興酒のようなものまで並ぶ。言葉を選ばずいえば無節操であり、それがこのうえなく「昭和」を感じさせた。しかし聞くと、開業は二〇一四年だという。ますます謎が深まる。

不思議に思っていると、一瞬若く見えるがあんがい年嵩のお店の人が説明してくれた。ここはある会社の保養施設というか、祝賀会のような物をやる場所なのだが、そういう場所の常か、年配の役員のような人しか来なくなり、「だったら」と一般にも開放したのだという。すべてに得心がいった。当初はアイリッシュパブ風を志向したと思われるが、あるときに別の人が地中海風の絵を描かせた。ジュークボックスも誰かが持ち込ませたし、大きな円卓があった場所にはコロナで集まれなくなったことから代わりにピアノを置いたらしい。店員の人が普通にピアノに空き瓶とか下げる皿を置くので怪訝に思っていたがどうやらそういう扱いらしい。ああ、なるほどね、なるほどね〜〜と、エウレーカというのか、かなり気持ちよくなった。なぜお金がかかっていそうでいながらなにか混沌としたセンスなのか、昭和を感じさせるのか。それは昭和生まれの(金と権力のある)おじさんたちが居心地よくしようと、あれこれ口を出した結果だったのだ! こんなに腑に落ちることがあろうか。

と、書くと小馬鹿にしているようだがそういうつもりではない。結構上等なお酒とおいしい食事をしっかり飲み食いしたわりにはリーズナブルだったし、なによりこんな場所を探そうと思ってもなかなか見つけられたものではない。こんなにも「昭和」が保存されているのだ。それも老舗の名店とかではなく、昭和の「センス」そのものがそこにある、そんな店なのだ。ひょっとしたら地方とかにいけばこういった宴会場はそこかしこにあるかもしれないが、ここについては恵比寿駅から徒歩五分くらいで行ける。すごい。これを見つけてきた後輩もすごい。そもそも独自のセンスと知見を持った人で、俺なりにつねに一定の敬意を持っているつもりだが。面白い経験ができた。

さて、今日。本当は七時半に立川についていなければならなかったそうだが、普通に九時に起き、出番の一時間前の十二時半にライブハウスに着いた。聞けば俺が来ないかもと騒ぎになって、急遽代打で五人くらいの人にレッチリをコピーしてもらったらしい。さすがに申し訳ないが、「そこまでする」という感覚自体が俺にはなかったので、そもそもそこでズレがあったような気もする。

あまり具体的な感想を書くと怒られが発生しそうなので書かないが、旧友が楽しそうだったので良かったのかな。まず。

五十人くらいの関係者がいた気がするが、そのうちの一割くらいしか面識がなかったので基本的にはウロウロして過ごした。ライブ自体はまあ、問題なく終わったのかな。さすがにスタジオでやるよりは集中するし、アドリブで適当に弾いたソロもまあ尺をはみ出したりすることはなかった。出来がよかったのかはよくわからない。ハウンド・ドッグ・テイラーが「演奏するときは客の足を見な。動いてたらいいけど止まってるんじゃだめだ」といっていたのを参照するならばまあだめなライブだったことになるが、まあ…他のバンドを観ているとき、観客が一様に例の「応援」のような動きをしているのを見るにつけ、まあ気にしなくていいか、と思うようになった。守備範囲ではなかったということでしょう。

しかしブルースを若い人の前でやらねばということを考えてはいたけれども、レッチリでこれなら、ブルースなんてのはよほど超越的に良い演奏でもしない限り(あるいは、したとしても)伝わらない人には伝わらないのだろう。まあ、せめて、あの場において明らかに異質な人間がなんか違うことをやろうとしていたというのだけ聞こえていればなと思う。しかし、いわゆるバンドサークルには自分は絶対になじめなかっただろうな。ビートルズ研究会やらでらしね音楽企画やらといった変なサークルに出入りしていたのは結局正しかったのだろう。人生はなるようにしかならないのかもしれない。

いくつか驚いたことがあった。それは、まあ門外漢からしたら特にミスをしたようにも見えなかった人が「いや、ミスしまくって…」とよくいっていたことだ。まあ明らかに弾けてない人は当然いたのだけれども、そういうのじゃなくてもそう言う。多分ミスというものの捉え方が、自分のように基本即興性の強い音楽をやっている人間とは違うのだろうな。原曲にない音を弾いてしまったらミス、というような。嫌な言い方をすればそれは音ゲーの「PERFECT」と「MISS」のような評価システムに近いように感じた。コピーバンドを上手くなる、というのはそういうことなんだろうか。自分は大学二年目でロックンロールを無理やりアドリブで弾くみたいなことをやって、それはそれなりに(当時の基準では)面白かったから、ああこれで良いんだと思ったものだけど。まあようは、ミスに対して減点方式で捉えるのか、演奏で良いところがあれば加点するといった風に考えるのかの違いだろうか。コピーバンド(これも日本独特な用語だろう、海外ではカバーというから)をやる限りは減点方式で考えなければならなくなるし、コピーバンドが本物のバンドを超えるということは原理的にない。ある種、彼らは俺などよりよほど難しいことをやっているような気がする。

自分はビートルズ完コピなどということをやってはいたけれども、「She Loves You」のモノラル録音の輝きを完璧に再現することは永遠に無理だし、それなら自分たちにできる演奏は何かということをそれなりに考えてはいた。ある種、自分たちと隔絶していればこそだったのかもしれない。それはイギリス白人がアメリカ黒人の音楽をやるのに近い。「これはできない」と思ってから、「じゃあどうする」が始まるのだ。

まあ、ブルースについては、あくまで「本物のように」やるにはどうしたら良いか、を今はやっている。でも、それは、結局自分の感情をどう音で表現するのかというやり方の問題であって、難曲を一つのミスもなく弾くにはどうしたらいいのかということとは全くちがう。いまはリトル・ウォルターのバッキングを完璧にやる、ということも必要だけれども。

さて。まあこのところ、ブルースはあんまりちゃんとやってなくて、ファンクとかロックをやっていたわけだけれど、結局のところどっちをやるにもブルースをちゃんとやる以上の近道はないのかもと思ってきた。ロックにしたってやりたいことは感情を伝えるということだし、ファンクにしたってブルースを感じる、ブルースの作りをもとにしているものしか自分は聴いていない(具体的にいうとジェームス・ブラウンだ)ことに気づきはじめた。そしてブルースの聴こえ方はこのところあまり伸びていないけれども、ファンクの聴こえ方はある時から何か違ってきた気がする。つまり、2・4ではないということ。(JBは。)結局ここなのだろう。あとは自分の承認欲求などの弱さとの向き合い、そこでしかない。

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