2024.3.12(オタクの組分け帽子)

ブルージャイアントを観た。この映画、というか漫画には複雑な気持ちがずっとあるなあ。音楽的にも作劇的にもおれの好みというか、「かくあるべき」と思ってる方向ではないのよね。ブルーノート(をモデルにした店)を頂点とする「日本ジャズ界」の描き方もナイーブすぎるし、ああいう感動させたるぞ〜って意図がはっきりしすぎてる物語も「やめてよ」って思う。

でも初めて読んだ時はまんまと感動したし、今回もコロっと感動してしまった。あー!!まったくもう。

なんだろうね。おれほんとこういうの免疫ない。ストレートに「泣かそう」としてくる物語に。なんでかっていうと避けてきたから…だと思う。あれ、なんで避けてきたんかな?

小学校の頃見せられた『さとうきび畑の唄』。正直おれは、あれを観て「感動した」と思う。しかし横を見ると、クラスの乱暴でスポーツができて勝手な奴がいて、そいつがきれいな涙を一筋流していた。それで小学生のおれは「こんな奴みたいに単純に涙流してたまるか、普段あんななくせに、カマトトぶりやがって、都合良すぎる」と感じたのだ。これははっきり憶えている。

それがはじめなんだろうか?

それ以来かはさておき、おれはたとえばテレビドラマとか、ファンキーモンキーベイビーズみたいなJPOPとか、「泣ける」とされるコンテンツを蛇蝎のごとく嫌ってきた。自分の感情がいいように動かされるのがいやだったのだと思う。「泣かそう」という意図で作られ、「泣ける」などというキャッチコピーをつけて売られたものにまんまと泣かされるなんて馬鹿みたいだと思って生きてきた。そうやって逆張りオタクという自己イメージを作ってきた…。

でも根本には「泣かされちゃう」自分がいるんだよね。むしろ、「そう」だから遠ざけてきたのかもしれない。その自覚もないではないのに、「泣けない」自分は感性が鈍いんじゃないかとかいらんことも悩んできた。で、結局大学の時にガールズ&パンツァーの劇場版を三回も見に行って、いちいち泣いたりしてた。けものフレンズも観て泣いた。結局一番ダサいところでそこを解放したのか……。

どうしたらいいんだろう。わりと真剣に悩んでいる。おれは自分の本心からの演奏をしたいわけだけど、おれの「本心」がもし「そこ」にあるとしたら、ブルースなんかやらないで日本のロックでも日本のジャズでもやったほうがいいということになってしまうのだ。組分け帽子に俺は念じ続けてる。「オタクはダメ、オタクはダメ…」「ふうむ、しかし君の資質はオタクに向いているがなあ」「君の凡庸な感性は、テレビドラマやアニメのベタな演出に感応しておるぞ」「とにかくダメなんです」……。

どうしたらいいのか…。自分が納得するまで、飽きるまでそういう演出を浴びるしかないのだろうか。それとも組分け帽子は、「どうなりたいかという意思が大事なんじゃ」と言ってくれるだろうか。

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