2024.10.7

 10月7日。とりあえず言えることは、元気である。涼しくなったせいなのか、なんなのかわからんがわりと活動的に過ごしている。とはいえ金曜日の夜は眠れなくて(21時ごろにジャスミン茶を飲んだせいかも)朝の4時までまんじりともできなかった。そのわりには午前中は病院に行って、ラーメンに並んで、一時間だけカラオケに行って…としたのだが、そこで一回電池が切れて20時までだらだらしていた。こういうことはよくある。午前中に調子こんでいろいろやってたら午後に疲れてずっと寝ちゃうことが。

 先日お祓いがどうとか、呪いのアンプがとか、胡散臭いことをいろいろ書いた。土曜には心療内科の先生に「最近どうですかー」ときかれ、その話をしてしまった。当然いぶかしんでいた。心療内科の患者がいきなり「買ったアンプがなんかに憑りつかれてたみたいで…」と言いだしたら、あ、ヤバいか? と思うだろう。事の次第を簡単に説明したら「ああ、ならまあ…」と納得(?)していたが、俺のカルテにどういうメモがされたかはさだかでない。

 穂村弘の『世界音痴』をこのところ読んでいる。ダ・ヴィンチ・恐山とかのエッセイを読んでてもそうなんだけど、おれはここまで極端に世界というものに対して違和感というか、疎外感というかを覚えているわけではないよなとか思う。俺もたいがい変な奴、一般的ではないタイプ、だと思うが、一時期「社会性を手にすることは良いこと」と信じ込んで必死でやってたのもあってそれなりに社会の価値観も内面化しているし、たとえばADHDとして極端に物忘れが激しいとかそんなこともない。こういう読み物を読むほどに興味はありながら、シンパシーは覚えきらないとき、自分の属性というものがなんだか中途半端に感じられたりするのだが、向こうからすりゃこんなのしたくもない苦労だよというところだろうな。

 結局おれはシステムになんて取り込まれてたまるか、社会に最適化してやるもんかと思いつつも、それなりに合わせてラクに稼いだり地位を得たりできるのであればわりとそっちに行ってしまうのではとも思う。実のとこできないからこういう発想になっているところはあるし…まあ逆もしかりだけど。それが正しいことと思えないからできないという部分もあっただろう。できないというのは同化できないということで。できるできないというよりは役割みたいなとこかもしれない。

 昼にスパゲティを食べた。たまに行く、たいしてうまくない飯が1100円だが広くてすぐ入れるし煙草も吸える店。ここがもっとうまかったら、あるいは安かったら、しゃべりに来たサラリーマンやタバコを吸いに来たサラリーマンばかりで、しかも空いているということもなかったろう。こういう話するとココイチを思い出す。たいしてうまくもないし量も少ないのにまあまあ高いのは、うるさいガキを遠ざけてサラリーマンの憩いの場所としてほしいからだ、と…もちろん公式でいっていたことではないのでそういう経営戦略なのかは知らないが、高校の時に初めて入って「具のないカレー」にショックを受けたおれは後年そのツイートを見て深く納得したものだ。

 たいしてうまくないスパゲティというと日吉にあったおじさんおばさん夫婦のやっているスパゲティ屋をまたも思い出す。大学の体育会系の聖地みたいに言われていた(実態がどうだったのかは知らない)が俺の在学中になくなった。当時の感覚で、大盛りのオプションは確かに充実していたが逐一100円くらいはプラスになるし、味はというと一人暮らしでちょっと自炊をやりだした男子大学生にも作れそうな感じで、なんだよ別にうまくねーじゃん、と思ったのを憶えている。でも、たしかにそこの店ではあらゆるコミュニケーションが発生していたのだろう。学生と店主の間での。

 俺は当時体育会系というものをほぼ憎んでいて、だからこそ「な~にが体育会系御用達じゃい、うまくねえじゃねえか」と思っていたのもあるのだろうな。なんというか、そういうことをすぐ思っていた時期は苦しかった。なにかっていうと怒ってて、しかもそれが義憤だとどこかで信じ込んでいた。

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