2024.4.8(消しゴムの便利さ)

 いや~まいったまいった。
馬鹿(自分の愚かしさ)には勝てん。

 昨日の分に書いたようにクレジット・キャッシュカードが使えなくなってしまったので、今手持ちに人に借りた5000円しかない。明日会社休んで銀行に行き、ひとまず通帳で大きめの額を下しておくしかない。とはいえ印鑑もどれだったか微妙に憶えてないし。

 そういうのもあってか、それとも単に二日酔いなのか、寝不足なのか、体調もグダグダである。

 教養があれば「春は揚げ物」で笑える、みたいなツイートが「それだけだとしたら教養なんかいらねえよ」と反応されていたのあったな。残念ながらつまんなすぎるし、教養としてもレベルが低すぎるので、当然っちゃ当然だ。教養というものが品性にも関係するとしたら、教養ある人は「教養があるとこんなにいいことがあります」なんてXに書いてバズろうなんて思わないわけで、あの議論に参加していた人の中から真に教養のある人を探すのは至難の業だろう。

 あらゆる学問がそうかもしれないが教養なんていうものはそれ自体が面白いから身に着けるものであってほしい。教養はこんなに役に立ちますっていうのは極めてナンセンスだ。まあみんな言ってそうだが、役に立たないことをできるというのが余裕があるということなわけで。自分の中にデータベースがあればおのずから楽しく、職場のゴシップなどに身をやつす必要がない、それが品性にもつながってくるのだ…知らんけど。マジで。

 教養って言葉、いろいろ含意しすぎて難しい。金持ちのステータスみたいに嫌味にとらえられることもあるし、単にとてもいいことですよ、とも言われるし。役に立つともいわれるし役に立たないからいいのだとも言われる。単に自分が楽しんで身に着ける知識のことを指したいのであればまた別の言葉が必要な気もする。一般に、鉄道が好きすぎて全部の車両の車種名を言えるとかは教養とはあまり言わない。ということは、教養とはハイソにおけるコードの一つであるといえる…少なくともそう思われている。

何の話?

 俺がいちばんいやなのって、たとえばコンビニでバイトしてた時の同僚の性格悪い親子とか。「あいつは仕事できない」「あいつは何とからしい」みたいなネガティヴな噂話をずっとしていて、そこに性格悪いなりのユーモアとかもなく、ただただ身もふたもなく性格が悪い。そして「仕事ができる・できない」というお題目を金科玉条のように振りかざす…。
 まあ、俺は「できない」ほうなのだが、一度「福地君は育ちがいいもんねえ、甘やかされちゃったんだよね?」とおばさんにいわれた時は心底気分が悪かった。まあ、人の育ちをあれこれ言ったりしない程度には育ちはいいですね、と後から言いたくなったが、これでは向こうの土俵に乗ることになるし、たいして気が利いてもない。自分の魂の位置を下げてまで言わなくてよかったと思う。まあ、実際にはあっけにとられたというか、ハハ、としか返せなかっただけなんだけど。

 師匠の言うところの「現実社会」のルールを過剰に内面化した人が常に苦手だ。「みんなやってるから」の件についてもそうだ。ただそういう人にも感情やそれなりの理屈があるし、俺が半分足を外に出してなあなあにやろうとしてる横でその世界でマジで生きてる、それって俺にはできないことで、一種の尊敬はある。たとえば重量挙げ選手に対する尊敬のようなものだ。俺は全然やりたいとは思わないけど、毎日そんなストイックにやってすごい…という。まあ、重量挙げ選手には目標がある。それもとびきり具体的な。ひるがえって社会に過剰適応した先になにか美しい景色が広がっているとはどうも思えない。彼らは好きでもないのに毎日重い荷物を持ち上げているのだ。

 カードが戻ったら坂口恭平の事務についての本を買う。まあWebで読めるはずだけれど本というデバイスで読むと自分の中であるフォルダに入れることができるような気がする。たぶん気のせいだけど。
 たとえば本を一冊読むと、まあその都度理解しながら読み進めてはいるのだけど、本質的にはフレーズの断片と、全体でなんとなくこんなことを言っていたなという印象、しか残ってないなと思う。でもそれが脳みその中身をいつのまにか変質させ、行動やらを変えてしまう。
 一冊の本から拾い上げるものって、シンプルに書いたら一行で済むようなことが自分の場合多かったりするんだけど、数百ページある中で自分にピンとくる一行だからか、あるいはその本を通した主張が一緒に頭に入っているからか、その一行の強度が高いと思う。最終的に残る分量だけでいえば究極ツイートでもいいわけなんだけど、ツイートはあんまり頭に残っていかない。自分の中にコンテクストがないから。

 友達から3件、それぞれ別件の連絡が来た。今日は動ける日なんだろうな。天気悪いのに大丈夫かな。俺もそうだけど、冬が明けるにしたがって友人たちの元気率が上がってSNSとかにも現れ出すのは冬眠から這い出てきたみたいでおもしろい。

 自分は子供の時から周りの流行とかに疎くて、なんなら逆張りし続けてきたからまあはっきりいって浮いた位置に自分を置くことになったのだけど、世の中でいう才能とかってそういうことなんじゃないかという気がする。自分が才能あるといいたいんではなく、そういう浮き方をしていた人が世間に認められるようなことをすると結果「才能あるから周りとは違ったんだね」ということになるだけ。
 まあ才能なんていう概念はあんまり考えない方がいい。『継続するコツ』でも才能っていうのはあきらめるときに理由にする言葉みたいなこと言ってた気がするし。

 しかし日記は継続しているなあ。ギターも考えてみれば10年以上継続しているわけで。いつも何年なのかわかんない。調べたら、高2って16歳らしいから12年やってることになる。
 ラジオの初回でも話したことだけれど俺はものを作って出すにはあまりにハードルを高くしすぎる性質がある。でもその割にはいろいろやって発表もしてきた。
 絵とか、読書とか、日記とか、音楽とか、とにかく最初のハードルを下げて日々つくるっていうのが最近実践しているアイデア、だけれど、実のとこ昔から自分がやってきたことなのかもしれない。スマホのせいで中断されていただけ。

 会社で日記を書くと、最初のほうの内容はまあまあだったりするけど、だんだん暇つぶしに書いてる面が強くなりすぎて質が下がってくる。たとえばギターアンプのスピーカーについて延々書いたりとか。しかも自分で試してんじゃなくて、想像で書いてる。
 演奏に関するとらえ方とかの話は後からこんな風に考えてたんだなあとか感じて読めるけど、ギターのスペックみたいなことをいちいち細かく書くのはほんとに何も言いたいことがない時で、けっこうマジでつまらない。ま、そんなものも載せてしまうのだけど。

 絵を日々描く、ということをやりだした最初は赤青鉛筆一本で(しかも海外のやつで発色が悪く、芯がもろいので細かい線を描けない)制限して描くということをやっていたのだけど、これはたとえば消しゴムで修正したりとか、あるいはいろんな色を使ってああだこうだ悩み、結果疲れちゃうというのを防ぐためだった。まあこれはやめて(なぜなら赤青鉛筆自体がどっかいっちゃったから)普通に無印の鉛筆二本で描いてみた。かきやす~。消しゴムも使ってみる。直せるのってうれし~。

 一度「消せない」「細かいことができない」ツールを使うことでそれができるツールに切り替えたときにありがたみがわかる。いいリセット方法だったかもしれない。消しゴムは奥義みたいなもので、それを前提に使いまくると強さがインフレして楽しくなくなる。そんなに修正しなくてもいいのだ。

 あーでも、文章もそうなんだけど、あんまり書いてから修正をしないというのをやってたんだけど、最近はちょっと直す。それこそ消しゴムを使ったタイミングと時期が重なるかも。

 自分の納得はいくくらいだけど、それ自体が重荷にはならないくらいのやりこみ。そういう塩梅。

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