2023.11.11(「とろみ」)

街を歩いていたら「あ、今日ポッキーの日か」という会話が聞こえてきて、そんな(つまんねー)ことすっかり忘れてたなと思った。もっともそういうのでみんな騒いでた頃がなつかしくもある。うちの高校はボンボンの息子がいっぱいいたので、そいつが何十箱もポッキーを買ってきて教卓に積み上げたなんていう写真がガラケーなりiPhone 4Sなりに流れてきたりしたものだった。Twitterなんかでも毎年毎年ポッキーの日だの、「バルス」でサーバが落ちただの、なんだの……牧歌的っつうのか、テレビ的っていうのか。全国でみんな同じことやってる、すごい! みたいなことにまだ結構みんな喜んでいたな。一種の錯覚ではあるけど、今もそういうのあるのだろうか。Tik Tokの流行とか。

ジェームス・ブラウンの二枚組のベスト盤みたいなアナログ(フランス盤?)が下北沢のディスクユニオンでけっこう安く手に入ったので聴いてる。いい! なんかキックやベースがくっきりしている。うちのスピーカーってこんなに低音出たっけ? 流石に当時のエンジニアが優秀だったのか、50年代の録音とは思想がちがうなともなんとなく思う。

超どうでもいいんだけど、昔椎名林檎のWikipediaに「CDの曲間の意味のない無音の時間を嫌っているので自分のアルバムには入れない」みたいなことがさも意味のある情報かのように書かれていて、高校生の自分もそれなりにそうなんだ〜と読んでいたな。普通に考えてレコードの名残だろってわかりそうなもんだけど。昔のWikipediaってとかくそういう主観的っていうか、こういう奴が書いたんだろうなってのが透けて見えるような記事がいっぱいあった。だからなんだよっていう情報に[要出典]がつけられているような。印象的だったのは、ブライアン・セッツァーのページに「独特の『とろみ』を残すギタープレイは〜」なんて書かれていたこと。なんだ「とろみ」って!? それからもう10年以上ギターをやってて、ネットでよくわからんおっさんが書いた音楽情報に人並み以上にあたってもきたが、「とろみを残すギタースタイル」なんてキモい表現にはそれ以来出会ったことがない。

まあとかく、当時はインターネットで無料でできることなんてそんなに多くもなかったのだろうなと思う。おっさんもそうだけど、高校生のバンド・ファンの子なんか、今だったらライブの映像をTik Tokに上げて満足するのがまあ妥当というもので、まさかそのバンドのWikipediaにファン以外どうでもいい小ネタを書こうなんて思わないんじゃないですか。でもその頃はそういう子もいたんだよなってことをおもう。かくいう俺もそういう子供のひとりだった。インターネットとて、スマホが出てくる前はけっこう楽しみ方に工夫がいる世界だった気がする。まあどうでもいいですね。

ええと。

いつも業務用PCのサクラエディタで書いているのでnoteで書くの久しぶりだ。やっぱり一回習慣が失われると戻るのが途端にめんどくさくなるわね。たとえばパソコンと充電器が違う部屋にあるというだけでもう障害になるというか。

最近禁煙、禁酒、禁ラーメンをしている。とくに禁酒についてはそれまでの人生の喜びの60パーセントくらいを失ったような気がするが、まあ新たな喜びのために一度耐えてみたい(一番は痩せること)。禁煙がもう26日続いてるんで、なんかいけるんでない? と思ったのもある。しかし今日三軒茶屋をうろついていて思ったけど、おれは煙草の吸える店の雰囲気と、決してうまいとも限らない料理とかがそもそも好きであったのだね。その猥雑というか、後ろめたさを許容してくれるような…そもそも場自体がなんとなく後ろ向きな感じが。おおげさにいえばおれはこの2年くらいで自分の中にそういう文化みたいなものを蓄積していたわけで、それに蓋をするのはちょっとつらいな。ま、しかし、これでまるっきり失ってしまうわけではない。

酒にしろ煙草にしろ一種の薬物であるのはまちがいなく、それをやっているときの、自分を自分で好きにしている感じが好きかもしれない。時流への反抗でもあるのかもね。おれの周りのたばこを吸う人って大なり小なりそういう視点がある気はする。

書いてたら吸いたくなってきた。いやいや。それはそれなんだよ。金はないし、血液検査で脂質異常は出てるし。そういう直接的な理由以上に、自分の惰性で身についた習慣をできればやめたいと思ったのだよな。このところ昼でも暇だったらビールを飲むし、飯が決まらなかったらとりあえずラーメンを食べていたし。それって本当に喜びだっただろうか、ということを考えたのだった。何も断たなくてもコントロールできれば一番いいのだけど、俺はどうもそれができない。

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