2024.10.9(カナガワマン・イン・セータガーヤ)

 昼すぎ。あんまり雨がひどかったものだから、体調が悪いことにして会社を休んだ。否、体調が悪かったといってもさしつかえない。昨日の昼頃から、「ああ、明日行ったらなんか良くない感じになるな」と思っていた。そういう時は実際「なんか良くない」感じに身体がなるのである。しかしこんな曖昧な理由は社会において「通用しない」。だから「体調不良」というラベルを貼ってメールを送りつけるのだ。

 父に「(お前のその感じだと転職してもやってけないから)今の会社すごくいいじゃないか」とよく言われる。こういう休みかたをしても激しく怒られることはないのだから、実際そうかもなとか思う。それはそれとして給料は安いし、自分が社会において「価値ある」「人材」とやらになっていう感覚もまるっきりないので、しばしば転職を焦って考え出すこともある。しかし他人が自分の「市場価値」をものしはじめるのを見るとき……自分は「そっち」じゃない、という思いを新たにするのだ。

 それはそれとして、……俺は「それはそれとして」という転換が好きらしいが……生存する力、が、どうも自分にはとぼしく感じたりもする。お仕着せの市場価値なんてので自分を値踏みされるなんてごめんだが、それにしても世の中で、つまり置かれた現実で力強く生き延びられる、ということに著しくコンプレックスがある。コンプレックスというのでもないか。コンプレックスというのなら俺は「ちゃんとする」コンプレックスだろう。誰が見てもちゃんと働いていそう、ちゃんと家庭を築いていけそう、ちゃんと「現実的」に行動できそう……、こう列挙してみると空虚だ。それはなぜ空虚なのだろう。俺にその力がないからか。それともこんな「現実」なんてものはそもそもないのか。

 穂村弘のエッセイを読んだり、ネットフリックスの「あいの里」を観たりしていてよくわからなくなってくる。「恋愛リアリティショー」なんて唾棄すべき見世物であると思ってきたしいまもそういう感覚は失ってはいないがどういうわけか観てしまった。人里離れた古民家(ラブ・ヴィレッジというしょうもない名前がついている)に集められたおおよそ10人の男女が共同生活のなかで恋愛をする。告白を決意した者は家の裏にある「あいの鐘」を鳴らしてそれを「村」の全員に知らせる……滑稽なしかけだがこの番組をすこし特殊にしているのは、メンバーが35歳から60歳までの「大人」の一般人で構成されているということである(俺が見始めるきっかけになったラジオでは「悪い言い方をするとぱっと見セックス教団」と形容していた)。

 まあ感想っていうのもそんなにないのだが、この番組を通して見せられ続けたのは人生後半に差し掛かった者たちがすべて抱えてきた「現実」の厳しさ、だった。妻と死別した男性。夫の不倫での離婚を2度も経験して「恋愛」そのものを信じられなくなった女性。韓国人の父を持ち、年に18回の法事を当たり前に行わなければいけない家庭に生まれ育った青年実業家。どれも今の俺には想像を絶している「現実」である。

 俺とて、そういう「現実」たりうる事情はいくつかある。しかし今の俺にとって一番重い「現実」は、そういった事情がいずれ「現実の問題」として立ち上がったとき、それに自分の力で対処できる自信がない、ということだ。つまりまだ「現実」は俺の中にしかないわけで、変な言い方だがまだ現実化していないのである。そういう甘ちゃんであることを自覚する時、「現実」の重たい質感を背後に感じる時、俺はなんだか耐えられないような気持になる。まあ書いてる今そうってわけじゃないが。そういう感情の中にいたらこんなふうには書けない。

 カフェにいる。喫茶店と書かないのは、自分の中になんとなくそう思えないラインがあるからである。まあ平成初期くらいまでにできた店だったら「喫茶店」だったりするのかな。自分の中にしかない基準を統計的に調べたりしたら。まあ、ともかく、洒落たバーを昼の間は間借りしているエスプレッソ屋、にいる。いつも若い常連がいて、ああ俺の場所じゃないなと思っていた店だが、今日はいつもの喫茶店、が2軒とも開いていなかったのだ。

 世田谷的なセンスの若者、というのはある程度ジャンルとしてくくることができるように思う。清潔感と「抜け感」のある、こぎれいなストリートファッション。丸メガネ。キャップ。綺麗に切り揃えられたひげ。以前「デザイナーのおじさんはみんな同じ見た目に収斂していく」という投稿を見たことがあるが、テイストとしては同じだ。フリーランスのおじさんが無害な存在として扱ってもらうための迷彩服。必然主張めいたものは失われる形で洗練されていく。

 「世田谷は田舎」という人が一定数いるらしい。以前バーで会った、昔から一族郎党世田谷、という歳上の女性も、「世田谷なんて田舎ですから」といっていた。じっさい彼女が子供の時ぐらいには全然田舎だったのだろう。自虐、というか、その心情はわかる。俺とて地元が世田谷みたいな感じで発展していったとしたら言うだろう、「ここは元々山と海があるだけっちゃだけだったんだから」とか。

 世田谷の若者の装い、振舞い、話し方…は、まあ、自分がアウトサイダーだと思っているからだろうが……どうにも均質的に見える。逆にいえば、世間の人の多くは、郷に入っては郷に染まる、のだろう。そうでなければこれだけ移住者の多い東京でここまで似たような景色が展開されるのはおかしい。同じ世田谷といっても、下北沢に行くと人々があまりカラフルなので(色遣いの話ではない)くらくらする。それは遠くから服好きの若者、デートの若者、が集まってくるからだ。もっともあの混沌とした感じもあまり落ち着かないが。

 世田谷人がどんどん増えてきた。在世田谷神奈川人の私はそろそろ去るとしよう。


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