2023.3.28(ツイッター生活史)

きのうはまあまあ長い日記書いたのに、データを移してなかったせいで投稿できなかった。まあ会社のPCで書いてるのが悪いのだが、息抜きだと思って許してほしいなと思う。

noteは○日連続投稿とかそういうトロフィー的なものがあるのだけど、〇時にリセットされて記録を失ったりとだるいので気にすることをやめた。いまは日記マガジンの本数だけ見て、ああ六〇本超えたなとか思うようにしている。しかしもう、六〇本超えたとてあんまり感慨ないな。百本行ったらさすがにおおと思うかも。

そういえば先月日記のバックアップを取りはじめたのをすっかり忘れてた。noteって、やめるときのデータ吸出しとか引継ぎみたいな機能が(二年くらい前の記憶だと)ないので、地道にコピペしているのだ。最後のが2/13だったんで、一か月分以上たまってることになる。めんどくさいなあ。
ツイートとかもそうなんだけど自分はリセット癖みたいなのがあって、アカウントもよく消すし、ツイートもよく消す。まあ消す以上に投稿が多いのだけど。割と自分のツイートを読み返したりするのは好きなのだが…いや、だからこそ消すんでしょうね。自分の出力したものへの執着が強いからこそ消したくなったりするわけだ。

自分とかはそういうふうなんで、もう十年前からかれこれ十個くらいアカウントを作っては消し作っては消しとしてきたのだが、友達とかは普通に最初のアカウントをずっと使ってる人が多い。そりゃ、俺みたいにTwitterばっか見てるような人間でもなければ、消す必要なんかもないだろう。

たとえばcopy__writingみたいな昔に流行った(そして叩かれて活動をやめた)アカウントをふと思い出して見に行くと、知り合いがフォローしてたなんてことがある。それで結構びっくりする。てことはその人のアカウントは十年分のフォローとか、ツイートを残したまま運用しているんだと。(悪いとか、ダサいって言ってるわけじゃないですよ。本当に。)それに思い至ったとき、なんというのか…感嘆のような感情が沸いてきた。なんか、十年間住んだ部屋みたいなもんじゃないですか。それって。昔読んだ本、漫画、若いころ書いた日記みたいなのが埃をかぶって、そのまま積みあがっている。そんな風景が思い浮かぶ。

しかしインターネットのそういうアーカイブというのはいざアクセスしたり吸い出そうとすると予想以上に大変だ。たとえばTwitterがサービス終了するとき、ほとんどの人はツイートやなんかをサルベージすることなく消えるに任せるのだろうと思う。よしんばできたとしてもフォローしていた人のツイートまでサルベージするわけにいかない。まあツイートなんて垢みたいなもんなんで、そんな大事にするもんでもないかもしれんけど、でもあれで呼び覚まされる記憶の断片はある。そういうのばかり見つめて生きるわけにはいかないのだが。

と、何となく執着するのは、何度か書いているようにYahoo!ジオシティーズやら、AdobeのFlashがサービス終了したとき、それでいくつもの界隈がまるまる消えたことに若干のショックを受けたことにもよる。原風景という言葉があるが根暗な小学生として毎日毎日そういうホームページを巡回していた身としてはあれも地元の消えた商店街みたいなもんなのだ。Twitterもそうなるだろう。まあどうでもいいっちゃいいが、引っかかりは残ると思う。

インターネットに流れたものは一生残ってしまうなんて陳腐なフレーズも今では聞かなくなったが、そんなことはないんだよね。消えてるもんは消えてる。デジタルタトゥーなんて言葉があるけどそれは例外的に悪目立ちしたとかのケースにおいて、という意味を表すために生まれたのだ。どうでもいいけど、デジタルタトゥーって言葉を考えた人ってタトゥーに対する偏見すごそうだね。

さて。

新卒として入社したころ、俺はもっともっと自我があやふやで、メンタルも不安定で、社会人としてやっていけるのかみたいな不安に常にさいなまれ、おかしくなっていた。だから会社の人に対しても自分という人間を理解してもらおうとしたり(自分の弱さをさらけ出すというのが当時の自分にできる最大のコミュニケーション(?)だったのだ)面白い人間になろうとしたりして結構必死だった。当時大学の先輩にエアリプで「危うい」「会社なんか自分を守ってはくれない」と言われたことを思い出す。(なにもエアリプで言わなくてもとは思うが…。)

まあじっさいそうで、会社でのコミュニケーションとか関係性というのはあくまで仕事ありきであって、たまに仲良くなる人がいるとしたら、それはたまたまそうなっただけだった。(そのうえで、いい人はいっぱいいるんだけど)おれはただのしょぼいSIer会社のSEではあるが、それは基本的にどういう仕事でも同じなんではないのかな。
会社において過剰に「人間性」を表現しようとしてしまうことは危険だし、もっと危なそうなのは、そこになんか寄ってくる奴だと思う。職場という、ある種のコードで動いている場において、わざわざ踏み越えて近づいて来ようとする奴。まあ、どういう魂胆があって、みたいなことは、経験がないし書かないが。

evernoteにもう二年くらい登録しているが、結局文章をそこで書くというより、どっかで書いたものをデバイス間で移動することにばかり使うし、これだったらGドライブかなんかでもいいんだよなあ、と思っている。なんかいまいち使いやすくないし。でもGドライブにテクストを上げるとダウンロードしたときに文字化けすることが多い。そのくらいなんだけどなあ。

仕事で使っているので、プライベートでもサクラエディタを使うことが多い。最初はダサいなと思ってたけどぱっと文章書くとかコードを見るとかだったら軽くていい。変にVSCodeみたいなかっこいいやつ使ってるとかえって疲れる。結構スペックが必要だし。でも新卒のころは無理してでもVSCode使おうとしてたっけな。プログラマーっぽくてかっこいいので…。

会議がヒマなうえ長引いたのでバックアップのファイルを更新した。文字数カウントに入れるとおおよそ十二万字。おお~。別にたくさん書けばいいというものではないし、事実内容はどうでもいいことばかりだが、量が数字になると、「おお~」くらいは思う。書き続けて、なんか変わったかな? まあ、力みみたいなものはとれたかもね。面白くしよう、有意義にしようみたいなことをほんとに考えなくなった。それにも飽きたら、多少面白いことも書くようになるかもしれん。

オモコロの永田が、コミュニケーションが苦手です、といったお悩み相談にたいして「相手をナメてください」と返していた意味が、最近ちょっとわかってきている。ここからは自分の解釈だけど、別にマジで舐め腐るわけではない。敬意は持たなくてはいけないし、人の話は聞かなくてはいけない。でも「コミュニケーションが苦手」といったときに、意外とその気遣いとか敬意だとかが過剰だということはある(自分はそうだった)。もっというなら、そういうときに自分が「敬意」だと思っているものって、むしろ悪く思われたくないとかの自意識過剰の表れだったりする。あるいは自信ないから、コミュニケーションの主導権を全部相手に投げようとしてしまうとか。それって気遣いとか敬意とは逆に近いものである。

まあそういうのをわかってて、「コミュニケーションが苦手」と言っているのだろうが、じゃあそれを取っ払うにはどうしたらいいんですか、への一つの答え方が「相手をナメてください」なんだろう。

これ、ブルース界隈のおじさんと接していくうちに覚えていったんだよな。年上でもしょうもない人はしょうもないというのも知ったし(演奏においてはね)、向こうだって若いからとひたすら下手に出てくるのもそれはそれでやりづらいだろうと思う。まあそれも踏まえて優しく接してくれてるのだけれども、そういうのがわかってくるのも普通のコミュニケーションに近づけるべく努力したからにすぎない。

話がずれてきた。まあ年上だから、ベテランだから、と、「それ用」の接し方をするのは、結局その人としゃべってるんじゃなくて、そういう肩書きとしゃべっているようなものなんだといいたい。

いろいろ反論を呼びそうだな。自分でもちょっと自信ない。実際会社の人と話すときはまた別の考え方をしているし。

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