2024.10.23(出社日記)

 昔「女の恋は上書き保存、男の恋は名前を付けて保存」みたいなのがさももっともらしく出回ったことがあったなあ。逆だったかな? つうか、出回った、んじゃなくて俺がたまたま目にしただけかもしれない。2chのコピペかなんかで…ねらーに恋の何がわかるというのか。

 高校の頃はなんかそんなくだらなすぎるまやかしも割と真面目に「そうなんだ」とか読んでいたような。

 なんでもこの文脈でとらえるのが果たしていいのかどうなのかなんだけど、俺は他者否定を通じて自己否定をしているようなところもあるのかもしれないな。まあ、同族嫌悪とかいうやつだが。ムキーッとなったときに、その感情そのものをどこまできちんと見つめられるかというのはありそう。義憤であるかのような錯覚はそれこそ感情そのものから目をそらすために生まれているかもしれない。

 おなかすいたな~

 ブルース界隈のBlueskyの部分

 なんか奥歯がいてえんだけど、虫歯なんか知覚過敏なんかわからない。虫歯ってなったことないんですがね。

 先日勢い込んで2万字近く書いたのもあってか、なんなのか、今日はぼけーっとしてますね。あれはなんだったんだ。コンサータ飲んだ時の自我? 前にTwitterで、「酒を飲むっていうのはふつうの時の自我から酒を飲んだ時の自我に主導権を明け渡すこと」ってツイートを見て、たしかにと思ったんだけど。最近記憶すらないしな。まあ、そもそも自我ってそんな分けることの可能なものかは知らないけど、単純にシラフに戻って「あ~なんでわざわざあんなこと言ったかね」っていうのはなんかあんまいい気分じゃないからやめたい。

 なんか、大学の頃「アスペ」っていう言葉が流行って、まあ浅はかで意地の悪い大学生であった私自身結構使っていた記憶もあるのだけど(すみません)ある日に「アスペ? お前がじゃなくて?」と言われた時は結構衝撃だったのか、いまだに憶えている。まあ、人に向けた悪意が帰ってきただけの話なのだが、あ、俺って「そう」なんだ、っていう、感覚があったのだと思う。「そう」というのは、乱暴なレッテルを貼られて排除される側、であるということで、まあそれまでもそれ以後もそういう言葉の加害性について深く考えず、あるいは人以上に考えつつもそれを上回る悪意でもって運用していた。ような気がする。もうあまり覚えてないが。

 まあこれで思い出すけど、当時平気で周りから浮けてしまう人とか、コミュニケーションが「変」な人に対して異常な攻撃性を発揮していた記憶があって、それは嫉妬だったり自己否定だったのだと思う。俺はこんなにも自分の「変」さを憎んで必死で矯正しようとしているのに、なんでお前は、といったところだろうか。当時の強すぎる自己否定がそのまま他者にスライドしていた。そうしているうちに自分自身も苦しくなった、だろう。

 俺はもともと一人で絵を描いたり本を読んだりというのを好む子供であった、ということは憶えている。はっきりした記憶はないが、たぶんそんなに友達が多いほうでもなかったのだろう。いた記憶はあるけど。なんか、ゲームとか遊戯王とかポケモンとか戦隊ものに興味持てなくて、友達といようと何しようとどっかで話が合わないとか、スマブラで早々に倒されて虚無の時間があったりとか(ジョントレも曲にしてたな)、なんかずっとそういう感じだった。だからこそ自分の好きなものをなんでわかってくれないんだとか思うのかもしれない。そういう孤独感をずっと抱えてはきた。

 『自己否定をやめるための~』を読んだ友達が、子供のころの自分と対話ができるようになったときの感覚を「何でこんなかわいい子をいじめていたんだ」という風に説明していたのだけど、その感覚がちょっとわかってきたかも。なんか、なんというのかね。これまでは今の自分のうまくいかない原因探しのような感じで過去にアクセスしていたけれど、今ふと、「なんでこんな素直で引っ込み思案な子をアスペだの自意識過剰だの、お仕着せの汚い言葉で虐めてきたんだろ?」という感覚が降ってきた。わが身可愛さ、というのとはなんか違う。今の自分とは別の存在として「この子」がいて、その子の面倒を見てあげなきゃという感覚。それか? でもまだ何も言ってはこない。

 なんか、ずっと、小中高と「浮いて」きたけれど、「アスペ」みたいなはっきりとした「お前は”それ”だよね」っていう言葉が向けられたことはなかったかもしれない。それが大学だった。めちゃくちゃいろんな人がいて、しかもインターネットのそういう排除に特化したような言語を使う人が爆発的に増えた時期だった。もちろん俺もそうやって人を傷つけた側でもあっただろうが。

 まあ仕事中にあまりしんどくなるのも本意ではないのでその話はいったん切り上げよう。飯も食ってきて、一回気持ちが途切れたし。

 なんか降ってそうだなと思ったのに傘を持たずに外出て、案の定ビショビショになった。

 会社のプレゼン大会のコミュニティをのぞいたら「地頭力」というプレゼン資料が上がっていた。なんて地頭の悪そうなタイトルだ、と思って開くと、「『頭がいい』とは学力など、後天的な要素、『地頭がいい』は発想力や想像力」みたいなことが書いてあった。最後には、「地頭力をつける方法」みたいなスライドで終わっていた。じゃあ後天的につけられるんじゃん。なにが言いたいのか?

 「地頭」って俺はあんまり好まない言葉なんだけれど、なんかその人個人の努力を無にするような、「結局資質(才能)」とか、「結局育ちの良さ」みたいないやらしさがあるからだなあと思う。べつに後天的な努力って受験勉強だけじゃないと思うんだけど…。まあいちいちツッコむのもただの意地悪なのでやめるが。

 いや、「学力」はむしろ「育ちの良さ」が寄与する部分が多い。そう考えると「地頭」はそっちに対抗するというか、ハックするような概念なんだろうか?
 でもあんまりよくないけどねえ。「実力」ではだめなんだろうか? そもそも、発想力とか想像力って別に「地頭の良さ」ってイメージない。もっと要領の良さとか、そういうことに見えてしまうけど。まあ、学歴がすべてみたいな考え方よりはましだけど、結局その外に出られていないというのか。

 まあそこまで考えられたら「地頭力」なんて言わんか。

 こういう言い方もよくないね。

 あ゛~!

 疲れた~。帰りてえ。なにもそんなに仕事してたわけじゃないんだけど、なんか新人のサポートみたいなことを一日やっていたような気がする。ずっとやってたわけじゃないんだけど、なんやかんや、ぶつ切りになって進めらんないっていうか。まあなんだかんだで体力使うんだなあと思う。あんま気の進まん仕事するよりは誰かに教えてる方が楽しいんだけどね。

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