2024.4.15(感染予防のため…)

 けっこう久しぶりになってしまった。最近コロラドに行ってないからかな。家にいるとすべての可能性があるので、その状態を維持するために結果的に何もしないということが多い。
 そこで喫茶店に行くと当然ギターは弾けないし、YouTubeをイヤホンつけて観るのもなんかどうなん? という気分になるので、結果本を読んでみるか、日記を書くかということにあいなる。それしかできない環境に身を置くことで結果的に無限に選択肢があるよりも何かをしやすくなる。ある場所に行くということは可能性を収束させるということで、これは人生も同じかもしらん。ブルースをやるのか、ジャズやるのか、もっとモダンっぽいことやるのか、あるいは原点回帰的にガレージロックみたいなことになってしまうのか、そういう迷いがまあおととしくらいまであった。いまはブルースに向き合うことにしているのだが、結局ブルースができればファンクもジャズも深いレベルからできるようになるわけで、まだカードを残しているともいえなくもないが。まあ20代のうちにいったんそういう意味での方針は定まった、といっていいのかな。わからんけど。

 結局どれやるねん、ということを他人に思うことがなくもないが(可能性は無限だが時間は有限である)、それは師匠が俺に思っていたことと大体同じなんだろうな。何かをやるというのはそれ以外の可能性をいったん捨てるということだと東浩紀がどっかに書いていた。

 コロナ以降、「新型コロナウイルス感染防止のため」座って用を足してください、みたいなことを時々見かけるようになった。べつにおしっこの飛沫から感染するという話は聞いたことがないのでおそらく関係ないのだが、汚いから座ってしろとは言いづらいゆえの方便だろう。いいと思います。おれはもとより座ってする派なんで、関係はないけど。

 そういえば会社の奥の方の出口に、「新型コロナウイルス対策のためこのドアは退室専用とさせていただきます」という文言が貼られている。ウイルスが外からドアを開けてやってくるわけじゃあるまいし、これだけだと意味不明だ。
 一応説明すると、換気のためにオフィス内は開け放すようになっているので、一番外側、つまりそのドアと正面入り口でロックするということになっている。が、その奥のドアには指紋認証のシステムなどが入ってないので、セキュリティ上の対策としては外から入れないようにするしかない。だから「退室専用」。いまでは中のドアも施錠しているので、その決まりごとは実質的に形骸化しているのだが、そもそも薄暗い階段しかないそのドアから出社してくる人はいないので誰も気にしていない。こうやって謎の不文律とは増えていくものなのだろう。

 さすがに一週間書いてないと筆の進みが遅い。どうやって書いてたっけ? なんか、書きたいことはいっぱいあるけれど、多すぎて渋滞起こしてるような感じ。三日に一回くらいは出した方がいいのかもしらん。そんな便秘みたいな。

 最近パラグラフの扱いを少し変えている。まるっきり違う話題に切り替えるときはnote的な空行でやるが、同じ話題だけど少し違うことを書くときは一字下げみたいな。正直正しいんかよくわかってない。日記を書きだした頃は段落とかなんとか決め事がありすぎると書きたくなくなるからやらないとしていたのだが、一年も書いていると自分がどこでひと段落しているのかがなんとなくわかってくる。じゃあ表記もそれに合わせるかという。

 土日はけっこう充実であった。土曜の朝に起きたときには何も予定がなかったが、天気が良かったので散歩した。隣駅くらいまで。隣駅には特に何があるわけではなかったが、ぼんやりと散歩それ自体をするのも良いことだなと思った。自己目的的というのか。そのわりには変なものを見つけてはインスタにあげてしまったけれど。そのあとには友人と大阪王将に行って嬉しくなり(最近おれはビールを飲みながら中華をがつがつと食うときの感情を「うれしい」と言う)、銭湯でその脂を落とした気になり(「銭湯に入る前に一度""汚し"を入れるといいんだ、などとミームくさい持論を展開した)、そのあと自分の部屋で一緒にレコード聴いたりギターとベースで遊んだりした。彼が持ってきたハワイアンのレコードの音が異常に良かった。たぶん60年代くらいの日本盤だと思うのだけど。その当時の空気感までなまなましく録っている。すべて出ているのにピークが痛くない。音が柔らかい。その、レコードの「音の良さ」。これを軸に俺のコレクションから選んで聞いてみるとやはり良いのとそうでもないのがあってずいぶん印象が変わった。お互いやってんなあ、と喜んだ。
 彼にベースを弾かせ、最近の気づきを共有する。すると彼の音がにわかによくなる。単純だが思い込みがあると迂回してしまうこと。

 日曜は学生映画の試写会。その前に新大久保に行ってサムギョプサルとチヂミとその他もろもろを食べて久しぶりに苦しいくらいおなかがいっぱいになった。戸山まで歩いてみると箱根山という人造の山、というか丘くらいの盛り上がりを超えることになった。なんだか田舎のような、新宿といわれればそうのようなよくわからないエリアで、彼女が気味悪がっていた。そのあたりには6,70年代から存在するであろう団地が所狭しと並んでいた。推測だけど、新宿にオフィスが集まってビジネス街の様相を呈し始めたころくらいに「アクセスが良く、都心でありながら自然に囲まれたニュータウン」のような感じで売り出されたのではないだろうか。今では「団地の子」などと貧乏家庭の代名詞のように差別的に扱われることもあるが、60年代当時は最先端のライフスタイルだったのだ。そういう資料映像がYouTubeに転がっている。コンパクトにまとまった文化的な住宅ですというような。

 前にそういうニュータウンを舞台にした小説があって、興味があったので買ってみたんだけど文章に魅力がなさ過ぎてやめてしまった。読み直してみようかとも思うが、もう売っちゃったような。

 で、ルノアールでちょっと時間をつぶしてから映画を見に行った。ルノアールといえばふかふかのソファでいくらでも時間をつぶせる場所と思っていたがそこは狭い場所に人を詰め込むような設計で、椅子も長居を拒絶するように安っぽく硬い椅子で悲しくなった。「座ることを拒否する椅子」。おもえば「カフェ・ルノアール」という名前だったような。喫茶室とカフェで違うのだろうか。あの椅子の感触から排除アートのベンチを連想するのは実にたやすい。とにかく人間をさっさと回して金を置いたら追い出すという発想。なんと貧しい国になったことだろう。そのうちモスキート音を流すラーメン屋が出てきてもさほど驚かない。

まあ、映画。時折シュールで笑っていいのか迷う箇所もあったけれど思った以上にちゃんとしていて、なんやかやで面白く観た。人間はそんな台詞台詞したこと言わなくない?とか思ったりするのだが、俺が慣れてないだけで映画とか演劇ってそうなのかもしれない。

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