2024.3.5(P-50sec)

おとといも書いてるのにあれだけど、3月になったねえ。毎年春になると不安にさいなまれてものすごく機嫌悪くなったり鬱っぽくなったりしたものだけど、今年はまだその波は来てない。あれは気候の変化がそうさせるのか、それとも「新学期」とか、「新年度」とか、そういう社会的な区切りが自分に「成長」みたいなものを強いてくるように感じられるからか。まあ両方だろう。年々そういう焦りが薄くなっていくのは加齢のせいだろうか。いやいや…あんまりネガティヴにとらえなくていいと思うことにしてる。なにかを焦ることで成し遂げる人もいるかもしれないが、別にそれがすべてではないし、自分の場合それは何かしらひずみを生みそうでもある。

きのうは呪物コレクターの部屋(もちろんコレクションも)を見せてもらう動画を合計2時間くらい観たらすげえ疲れてしまった。やはりさわりが…と思わんでもないが、単純にスマホの画面を2時間見続けるだけでも疲れるし、いかにも禍々しいものを見てたら霊障以前に緊張してしまう。それだけのことだろう。

そういえば呪物ってほどでは全然ないが、小学校のころから持っているきれいな石がある。放課後に校庭をうろうろしていたらなにやら使いかけの消しゴムくらいの石が地面から顔を出していて、なぜだか気になって掘り起こしてみたら思ったより大きな三角形の石だった。おそらくは波にみがかれた、なめらかな薄茶色。どうしてこんなところに?という疑問には、「このあたりは昔海だったから」と小学生なりの答えを出したと記憶している。事実校庭には貝殻の破片が落ちていることがよくあった。でもどういうやり方で学校の用地を造成したのかを知らない以上正しいかはわからない。
実家で時間を持て余しすぎるくらい持て余していたころ、たまに引き出しからその石を取り出しては掌の熱を吸わせたりしていた。Twitterかなにかで昔のヨーロッパの貴族は踊りの前に手が汗ばんだりしないよう、舞踏会の時はハンドクーラーというのをしのばせていたと読んで、「これが俺のハンドクーラーか」と思ったりした。舞踏会はおろか家から持ち出した記憶さえないけれど。

まあそんなこんなで20年持ち続けている。東京に越してきた時もなんでだか持ってきてしまった。

呪物…というよりはものに宿る念みたいなことを考えていたらそれを思い出して、昨日久しぶりに手に取った。あいかわらず触れると冷たくて、でも人より高い俺の手の温度を吸ってすぐなまぬるくなった。

これ、ちょっとくどいっていうか、「書こうとしてる」な。まあ、それを前に「霊感がある」人にそれを見せたら、「福ちゃんの念を吸いすぎて重いからできれば出さないで」と言われた。

この「書こうとしてる」感じについてもう少し掘り下げられそうな気がした。でもそんなには深くならなそう。ほどほどに。ここで「書こうとしてる」といった感覚は、もう少し細かくいえば、自分でもしっくりきてないのに「それらしい」からとよけいな文章を足しているという意味だ。正直「あいかわらず冷たくて…」という文章はいらなかったっていうか、自分ではどうでもよくて、なんなら少し虚栄を感じる。「なんかよさそう」あるいは「必要そう」だから入れているだけで、なおかつその「そう」には世間的には、という前提がある。

う~ん

全く人に見られることを想定してない文章がいいというわけではないのが微妙なところだなあ。ただ「世間的にはなんかこれがよしとされそう」みたいな、実際は自分の頭の中にしかないのだが、ばかりで物を書くと、自分ですごくむなしいというか、空虚というか。言いたいことがないのにソロを長々弾くというのと同じというか…。

でも義務教育の段階で書かされた「作文」って、本当にそういう性質のものだったなあなんて、まあこれも日記始めてから幾度となく書いてるから、やめよう。

StrokesのTaken For The Foolって曲のライブ映像が今年に入ってから妙に好きになってしまって、少なくとも20回くらい観てるんだけど、そうするとだんだん細かいところが見えてくる。たとえば「Sister, it feels like just yesterday」という箇所が「don't you forget yesterday」という歌詞に代わっていたりする。もともと、そこ歌いづらいなあと俺も感じていたのだが、本人もそうだったのか、とか思う。

あ~。帰りたい~。

上にああいうことを書いたけど、出社したときの日記っていうのは暇つぶしのために書いているので、別に書きたくないことも書いている。世間的にどうかはあまり関係ないが、結局のところ自分の本心ではない、とまではいわないけど、だいぶその浅めのところからひねり出してるのは否めない。

ん~。読む人のために文章を整えるとか、おもしろいものにするというのはいいんだけど、そのために別に言いたくもないことを言う必要はないって俺はいいたいのかなあ。もうちょっと微妙なところか。「世間的にはこれがいいのかな」って書き方は、「読む人のため」よりももっと消極的で…具体的に読む人の顔が思い浮かんでるわけじゃなくて、無意識的な規範に従って書くということで、それがつまらなくしてしまう、といったところかしらん。

遠藤周作のエッセイで、別に信心深いほうじゃないのに、60超えてから霊みたいなものについて関心を持つようになった、みたいなこと書いてたのが妙に印象残ってるなあ。

あと、定年後に郷土史家になろうとするおじさんがけっこう多い。

死が近づくと、自分という人間一人が成せる(成した)ことのスケールがなんとなくわかってきてしまうから、より大きなスケールの流れだとか存在の中で自分をどう位置付けるかということが気になってくるということなのかな。そこで死後の世界(輪廻だとか)とか、歴史とかに興味がわいてくると。

と、急に同期との雑談チャットに投げてしまい、バランスをとったほうがいいかなと思って、たまたまトイレで横に並んだ上司のおしっこが50秒ぐらい出続けていた話をしてしまった。

こないだ回ってきた某サービスをあげつらったnote、流し読みしたけどつまらなかったな。あれこそ、こうしたら「世間」が面白がるだろうという作為に満ちていた(そして彼の想定している「世間」というのは自分のフォロワーのオタクたち、以外の何物でもない)。挙句の果てに、そういう「面白かろう」に振り回されすぎて自分が何を言っているのかもわからなくなっていた。でもそれなりにウケていて、「あの(ソシャゲ)のたとえでめちゃくちゃ笑いましたww」みたいなコメントすらついていた。まあ、であれば、彼が意図したところに意図したとおり受け入れられたということなので、別にいいのかもしれない。

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