2023.7.16(映画二本見る)

土日の予定といえば往々にして家でゴロゴロしてたまにギターの練習をするか、友達と飲みに行くかくらいしかなかったのだが、今日はめずらしく一人で映画を観に来た。それも2本。「アクロス・ザ・スパイダーバース」と「君たちはどう生きるか」。どちらもTwitterを見てなかったら(気にはなっても)わざわざ観にくることはなかったかもしれない。おれは相変わらずTwitterに動かされている。ガールズ&パンツァーやらマッドマックスを観に行ったときとあんま変わってない。

一本目の「スパイダーバース」が終わったので、二本目に向けて時間を潰している。渋谷の、道玄坂センタービルの地下にある喫茶店だ。こんなところに喫煙可の店があるとは盲点だった。しかも思ったより混んでなくて、すっと入れた。アイスコーヒーも美味しい。普通にGoogleマップで検索したら出てきたけど、ひょっとして穴場なのか?そんなわけないけど。電波は悪いんでとりあえず今はメモ帳で書いて、地上に出た時に投稿するつもり。

現在14:45、あと一時間。15時にBYGが開くから、店を替えてギネスでも飲みに行くか迷う。おれは落ち着きがないので、一時間一人で暇を潰すのもけっこう骨が折れる。このへんが、なんか自分は大人じゃないな、と思う。大人って一人で時間が潰せるものだというイメージがなんとなくある。

大人。おれはけっこう、「ちゃんとした大人」みたいなものにコンプレックスがあるものの、そんなものは存在しないので、影を追いかけているようなものだ。前に"社会人"について書いたけど巷でいう"大人"とやらはおおむね"社会人"にかぶってくる。

店が混んできた。穴場というのは幻想でただタイミングがよかっただけみたいだ。斜め前にはやや年配の女性。丁寧だけどやけに細かく注文する人だなと思ってたらさっき煙草に火をつけた。意外で、ちょっとかっこよく見えてくる。最近はやりだが、そういう印象のなかった女性が実はツーブロックにしていたみたいな感じで、ちょっとしたギャップでいいな。

スパイダーバース。これはそろそろ感想を書いてもいい頃合だろう、まあネタバレというほどのことは(覚えてないし)書かないけど。もう、画面一つ一つの「すごさ値」みたいなのが高すぎて、なにをどう観ていいかわからないというくらいだった。前作ですでに圧倒的だったけど、それが100だとしたらこれは150くらいで、自分にはトゥーマッチに感じた。人間が一回で感じられる「すごさ値」みたいなのを超えてしまっていて、飽和してるとすら思う。もちろん面白い映画だし、アニメーション映画史、みたいに、自分という一人の人間より大きな枠で捉えた場合に大きな作品であることは概ねまちがいないだろうが、自分の生活の中で、ある日ふと思い立って観に行く映画としてはあまりに強すぎる。

飽和。飽和ね。音楽でもそうだ。音楽なんかだと、自分は音数の少ないものを好む。それが唯一の正解ではなくて、ひとつのやり方で、ただ自分にフィットするのがそれだということ。この映画についていえば逆で、とにかくすごいものを本気で詰め込めばすごくなる、まあことはそう単純ではないにしろ、そういう価値観でもとらえられるものだった。

飽和ということだとceroのライブにも近いことを思ったかもしれない。この映画ほど極端ではないがあれも飽和して感じた。ただそれは明確に「詰め込んだらすごくなる」という思想でやっているわけではなくて、いろいろ試行錯誤したすえにややとっちらかっている、という印象だった。はっきりいってしまえば、グルーヴを作るための要素がたくさん入れられているけれど、作者が明確にグルーヴを認識できているわけではないために、多くの要素は遊んでしまっていて、つまりどういうこと、となっているような状態。フェラ・クティとか、もっとわかりやすくいえばジェームス・ブラウンとかは、あれだけ大きなバンドでやってもきちんとグルーヴを提示しているわけだけど、それは自分が何をやっているかわかっているからだ。

まあ、おれならもっと上手くできるなんて話ではなくて、ただの感想…。

飽和。もっと小さいスケールの話をすれば、たとえば音量ひとつとっても、バンドが120の音を出しても観客の耳には100までしか聴こえない。波形でいえば海苔みたいに上から下に張り付いている状態で、バンドの音は悪い意味で混ざってしまうし、最悪苦痛になる。例外は低音か。可聴域より低い低音は耳とは別の感覚器官でどうも捉えられるらしい。「腰に来る」みたいなのは多分そういうこと。アメリカの音楽はそれをうまく使っているが、日本の…とまで書くと、話がそれるのでこのへんにしておこう。

なんの話だっけ。スパイダーバースか。うーん。ていうか、料理にしても旨味とかの値をカンストしてしまわせるものじゃなくて、100あったらその中でどうバランスをとるかというところに妙味があるはず、という世界観で自分はやってきたから、あんま好きなタイプの作品ではなかったかもしれない。その考えも古くなっていくのか? いや、そんなこともないと思うけどねえ。そうでなくなるとしたらもう観る人間側の感覚が拡張されるしかないような。でもAIだなんだで、意外とその拡張は遠からず起きるのかもしれない。たとえば60年代の人に今日のサブベースの効いた音楽が受け入れられたか? どうだろう。

まあ、次は「君たちはどう生きるか」だ。そろそろ時間。どういう映画かは(できるだけ前情報入れないようにしてるので)わからんが、まあ「スパイダーバース」みたいな作りでないことは間違いなかろう。

斜め前で変な勧誘みたいなことが始まったからそろそろずらかろう。

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