2024.4.5(立ち食い蕎麦屋のコード)

急遽というか、まあ出社はどのみちすることになったであろうタイミングではあったが午後から出社した。そのときに書いた内容もあるんだけれどGoogleのメモ機能の同期がされなくて貼れない。載せるのは月曜になりそうだ。

レッドブルとエビリファイとコンサータとミンティアで無理やり集中してなんとかまあ今日の分は片付けた。へとへとだが、あんまり食欲がない。昼も食い過ぎたし。それでなんてこたない立ち食い蕎麦屋に入った。とろろそばだけでいいのに不安になってミニカレーをつけてしまった。こういうことをしているからというか、そういう思い込みで生きてしまっているから、あたりまえだが痩せない。酒も飯もそうなんだけど、学生の金のない時分に部室で寝泊まりして二日にいっぺん二郎系を食うとか、誰かがなんか飯を持ってきたらできるだけ食うとか、そういう卑しさを身につけてしまったのもよくなかったような気がする。あったらあるだけ食うという。まあ書いてみると学生らしくていいかもしれないが。そろそろそのライフスタイルはやめなくてはならない。

立ち食いそばといえば。立ち食い蕎麦をいなせに食べる人のイラストに対して「行儀悪すぎて無理」みたいな引用をした人が、無粋すぎると批判をされてたことがあった。なんかその時はあんまりピンとこなかった。今、無粋っていう言葉はたとえば反コンプライアンス志向の人が、人になにかを言わさないために使うことがあったりするし、そもそもこの時代に「粋」って文化が生きながらえているイメージがあんまりなかったから。でもふと思い出して、あれはなんで無粋なんだろうと考えながら雑にそばをすすった。

ひとつめ。その「無理」の人のツイートは、たとえば「韓国の人はお椀を置いたままものを食べる、なんて品がないんだ」という物言いに近いものがある。この例えはあからさますぎるが、日本の中にだって家庭の食卓と立ち食い蕎麦屋とにはそれぞれの異なるコードがある。だからその人は文化の相対性というのを理解していないということになる。

ふたつめに、その人は、自分がマジョリティというか、「社会的に正しい」側であることにあぐらをかきすぎだ。行儀とかマナーを守ることは正しい、だから立ち食い蕎麦の食べ方に反感を抱く自分も正しい、という尊大さに無自覚なのがやはりイヤだ。

みっつめに、わざわざ言うなよ、というのがある。気に食わないのはわかるけど悪いことしてんじゃないんだから無視しとけよっていう。これはまあSNSのいろんなところで見られますね。そしてわざわざ「言いたくなる」のは、ふたつめに理由があるんではないかと勘ぐりたくなる。まあ、俺のこの投稿もそうかもしれない。

とりあえずこのみっつをもって俺はたしかにあの引用は「無粋」だったな、と結論づけた。これでいうと福岡の成人式の写真を毎年いちいちあげつらって馬鹿にするオタクとかもやはり無粋だ。

めずらしく箇条書き的な書き方をしてちょっと窮屈だった。まあ、俺だって関係のない人の音楽なんかに「あんなのはくだらない、意味がない」とか散々言ってるわけだけども。

なんつうのかな。歴史の積み重ねによって色々な場所にそれぞれのコードが生まれて、それぞれに合った人がそこに集まる。すべての人間が小洒落たカフェやビストロや巨大でモダンな駅ビルをありがたがるわけじゃないぞ、という思いがここ数年強くあるし、よく言っていることだ。タバコの吸える喫茶店、留年生ばっかりのサークル、立ち食い蕎麦屋。そういう長い時間の中で生まれたよどみがあるから生きられる人もいるわけだ。護岸工事っていうのはまあ、安全のために必要な面もあるわけだけど、しかしすべての河川をコンクリートで固めて水がスムーズに流れるようにしたら、よどみに生きてきた生物はどうするんだ。そういうふうに思う。そういう生き物もいてこそ多様性とは成り立つのではないのかと。

こういうこと言ってると俺も「反コンプラ」みたいになっていってしまうんだろうか?

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