2023.12.23(家族の会合にバリ遅刻しています)

洗濯物つっこんでコロラド。今週はなんか忙しかった。といってもサボったりもしてて、いつも面倒かけてるおばさんに電話で怒られたりもした。正直間に合う間に合わないはけっこうどうでもいいと思ってる節があるが、「こっちも家のアレとかでけっこう参ってんだよ…」と言われた時はさすがに申し訳ないと思った。そのあとはちゃんと真面目にやって、在宅ながらとりあえず目処をつけることができた。先月とかほとんど仕事してなかったから今月はつけが回ってきたというかんじだ。まあ、ある種の転機になるのかもしれん。おれは仕事ができないんだと思い込んでいたけどまじめにやったら普通にできるじゃんと。

自分はブルースという、まあはっきり言ってそうそう商売にならない音楽をやってて、それを普通にサラリーマンやりながら(そしてサボって練習したりしながら)だんだん上手くなっている。なんか、大学くらいは音楽を仕事にしようとか、それでこそ真剣にやるということだという思い込みにやはり取り憑かれていたけど(だからリットーミュージックの求人に応募してみたり、ソニーミュージックに就職した後輩をうらやんだりもした)いまにしてみれば、興味もないアイドルのプロモーションやらされたり、間違っていると感じる教則本の編集やったりしても自分を裏切ることになって苦しかっただろうと思う。そもそも薄給だし。まあ今の会社も高給とは言い難いが、暇しようと思えばわりとできるので。

父に、昔から「おまえは職人とかになった方がいいんでないか」みたいなことをよくいわれた。元彼女には「マッサージ師になったら」とか。それもよくわかる。結局、まあ俺はそういう気質の人間だというのはあたっている。ブルースだってそういう職人的取り組みであって、一見派手なブルースマンも基本的には職人ぽいところをもっているものだ。

なにがいいたかったんだっけ?

まあ、うーん、こういう好きなことのやり方もあるんだな、ということが最近知ったことだ。俺の師匠とてITで起業して、100人くらいと交渉しては肌の合う顧客を見つけてきて、一人でそれなりにゆるくお金を稼ぎつつ毎晩ブルースの練習をしている。でも、その事実は彼をブルース求道者としての価値をなんら貶めるものではない。大阪で観た人たちはプロで、故にふつうの観客にウケるステージをやらなきゃいけないし、ハーモニカやギターの先生もやらないといけない。もちろん彼らの演奏は良かったし、石にかじりついても「音楽を続ける」という姿勢は尊敬しているけれども、「レコードで聴いたようなブルースを自分でもやる」という目的からはやはりずれていると言わざるを得ない…。日本で「音楽のプロ」としてやるというのはある程度そういうことなのだ。前に一緒にやっていた石川さんというプロにしても。アメリカに行った人にしたってほとんどはメシを食うために日本に戻ってきて、「アメリカで学んだ」を売りにして食っていくか、別にブルースが好きでもないメンバーと商売バンドをやり続けるしかない状況。それは先日おれがシットインしたアメリカ人のギタリストだってそうだ。

なんか常々思うけれども、この2年、師匠っていう、まあ歳の離れた人と色々話したりすることで、音楽のみならず人生の見方も随分変わったな。なんか大丈夫なんじゃないか、と思うようになった。少なくとも意味のない悩みは少し減った。それは薬を飲み続けていることもあるかもしれないけど。「(サラリーマン倫理からなる)社会に適合しないと人生が終わってしまう」という妄念からだんだん解き放たれてきたというのが大きい。今年できた友達ともそういう話をできた影響もある。

あらためていうけど、俺は「本気でやる=それで食べていく」という考え方には懐疑的だ。まあそれが合っている人とかはいいし、知人のアート方面に行った人とかもそういう世界に身を投じたけれども。かつてはそれで自分が置いていかれたように感じたが、でも別に無理してスタジオミュージシャンになりたいわけじゃないし、作曲して売れたいわけでもないしな。そこが当時の自分にはわかってなかった。自分が何をしたいのか。

でも自分がなにをしたいのかなんてあんまりわかることでもない。なんかそういうのは、意識の外みたいなところから来る気もする。世俗的なところでいえば縁だとか。この人に出会ったことでなんか自分のやりたいこと、やるべきこと、自分にしかできないことがわかった、ということは起きると思う。俺にとってはブルースをやることがそうだった、と、今は思う。5年後10年後にどうかは知らないけど。いまはそう思うのだ。

だからなあ〜。うーん。なんか、みんな、自分なりのやり方が見つかるんじゃないか、っていいたいんだよな。坂口恭平みたいに、自分が書きたいことを書きまくって、描きたい絵を描きまくって、それを売るという生き方だってあるし。あんなに書きまくらなくたって、たまに自分で作ったものを売れないまでも発表して、知り合いしか見なくても、何かの縁で誰かの人生を少し良くすることもあるかもしれないし。

とにかく真面目であると、それにつけ込むように、社会がああせいこうせいと価値観を刷り込んでくる時代にいま我々は住んでいて、それをうまくかわしたほうがいい。別のしかた、オルタナティブを考えた方がいい。

悩んでいた頃、師匠が「現実社会に住んでいる人」と、「変わっている人」という表現をしていて、それに俺はずいぶん救われたと思う。俺たちは変わっている人で、現実社会の人とは違う。現実社会の人のやり方なんてつまんないやん。サラリーマンと仕事してると、みんなサラリーマンごっこしてるように見えるんよ、と彼は言った。

おれのいまの友達はだいたいが「変わっている人」だと思う。まあ内輪ボメで、選民思想みたいなこと言うのはつまんないけど、みんな面白くて、みんなそれなりに「現実社会」とのかかわりに悩んでいたり、逆にうまく折り合いをつけてたりする。なんかおれは、そういう友達が増えたことがうれしいと思う。みんなと楽しいことを見つけていきたい。それは、つまんねー「社会人サークル」的なものとは違う。金につながってないだけで、こっちが好きでやってることを「趣味」とか言ってくるやつとは違う。

「趣味」って、なんか、、こう、いや、ほんとに趣味ならいいんだけど、たとえば俺が音楽やってることを趣味とか言われるのは心外なんだよな。散歩とか、銭湯に好んで行くことを趣味と言われる分には全然いいんだけど。

あ〜。なにが言いたいのかわかんなくなってきたな。変に強い言葉を遣った気もする。弱く見える。

電車が遅れてたからか家族との会合にバリ遅刻してる。でもGoogleマップの言うことに従っただけで、まあ正直10分くらいは遅れるかもなと思ってはいたけど、なんでちゃんと1時間前には出てたのにそんな30分とか遅れることになるんや?意味がわからない。

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