2023.6.28(犬猫)

あー。目覚ましが、スヌーズ機能を使ったはずなのに二度と鳴らなくて、寝坊した。遮光カーテンで眠りが深くなったのはいいが、これまで勝手に日の出とともに一回目が覚めてたのが、普通に九時くらいまでぐっすり寝れるようになってしまった。いいことなんだけど、目覚ましいっぱいかけないといかん。

うーん、メンタルはそれなりに良好な方だが、昨日も書いたように、なにかやってる感じがしないというか、やる気が出ない。でも巷で言うやる気が出ないってこのくらいなんだろうか。

このところ人間関係を絞るようなことをよく考えていて、それが正しいのかどうか、少し自問している。合わない人と一緒にいてストレスを受けるということが減っているので(仕事は別として)それはいいのだけど、そうやっていくとだんだん友達が減っていくような気もするし、合わないような人とも一応接しておくのが知見を広げるということのような気もする。

まあこういうのが自分本位な人との向き合い方なのかな。「合う人/合わない人」とか「尊敬できる人/できない人」みたいな恣意的な分け方は傲慢か。

こういうことをずけずけと書く人は周りにあまりいない。まあ飲み会では言っても、書くことではないよな。

サンドイッチが結構好きだ。ちゃんとしたパン屋さんで買うのがやはり一番おいしいが、コンビニの、紙みたいに薄いハムが束になって挟まっているやつも嫌いじゃない。

子供の時からコンビニでごはんといえばおにぎりと総菜パン、あるいはサンドイッチだった。おにぎり、総菜パンは百円台だったから。サンドイッチはちょっと高いのであんまり買わなかった。その反動というほどのこともないだろうが就職してからはサンドイッチをよく食べる。一度おにぎりとサンドイッチを普通に買ったら、「何、その食べあわせ」と言われて、あ、たしかにと思った。俺にとってコンビニご飯といえばその二つで、チルドのスパゲティとかはちょっと高級品だった。特にオチはない。

上で、社会人になってから、と書いて、んーと思って就職してから、と直した。自分が社会人であるという意識はいまだにない。人はいつ社会に参画するのだろうか? と考えると、生まれた時からじゃね、と思うし。社会人、という言葉、つくづくあいまいだ。というか、言葉のつくりに、その意図されるニュアンスがほとんど含まれていない。コンビニバイトは社会の人じゃないのか? といえば、まぎれもなく社会に参画して、そこを回しているわけだし、働いてないけどボランティアで困った人の支援をしている人は社会に貢献してないのかといえば間違いなく貢献している。でもそういう人を「社会人」とはあまり言わない。結局のところ、「社会人」って、ほとんど「会社員」って意味じゃないか。「会社員」だと意味が厳密すぎるし、いまいち体裁もよくないからみんな「社会人」という語を使っているだけのことだ。「社会人常識」というのはほぼ「会社員の常識」とイコールである。

俺は「社会人」という語を振りかざす人が苦手である。そんなにたくさん会ったことがあるわけではないけれど、いたら苦手だろうなと思う。「使える」とか「使えない」みたいなのはもっと苦手だ。なんて暴力的な言葉だろう。人一人を強引な二極端に片づけてしまう。

日記を書き続けているせいか文章のクセが少し変わっていたことに気づく。「~だけど、―だ」みたいな文を以前は本当によく書いて、自分でも目に付いた。最近もやるが、ちょっと減っている。ある種あれはツイート的なクセだったのだろうな。一文で全部言うことに慣れすぎていた。

「人間」って、人はまあ人だとして、「間」ってどっから来たのだろう。ところで「動物」って語もすごい。動く物。結構無機物でも動いてる場合あるけど。animalの訳語として動物という語が創出されたのか? それまでなら獣だろうが、獣のほうがよほどanimalっぽい。動物って、moving objectじゃないか。
動物が、たとえば鳥類や爬虫類を含むのかも、なんかいまいちぴんとこない。爬虫類はまあ含むけど鳥類って別枠の気がするし。魚だって動くけど動物とはあまり言わない。イルカは動物で、サメは魚、というのも、イルカは哺乳類、サメは魚類、というほどにはしっくりこない。

おれは(使いはしないけど)「犬猫」という言葉が結構好きで、そのなんか語の冷酷さが、今の社会ではあんまり表面化しない類のものだからだ。まあはっきりいえば「昭和」の感じが色濃くあって、いまこういう言葉ってあんまりないなと思う。「犬猫」って、まあ「愛玩用の畜生」みたいなニュアンスがありますよね。

先日オモコロのなんかを聞いてて、うちのおばあちゃんは動物番組を見ながらご飯を食べるのを嫌がった、みたいな話があった。牛とかが割と身近にいた世代の「獣」に対する感覚って我々とかなり違うのだろう。

二十代も後半になってくると、身の回りのいろいろやってる人がアルバムを作ったり、個展をやったり、デザイン関係の職場に就職したり、自分で法人を立ち上げたりと、「結果」みたいなのを出し始めることが目についてきて、焦るわけではないが「そうだよなあ」などと思う。自分の、世間的に見られる「結果」ってなんだろう。石川二三夫さんのバンドにいた、くらいかな、ネームバリュー的なとこでいうと。

音楽の聴こえ方とか取り組み方をこの二年くらい変えてきていて、実際成果は出続けていると思うのだがいわゆる「実を結ぶ」のは数年後なのもわかっている。これ、師匠(仮称)がそういうプランを見越していて、それを聞いているから余裕でいるけど、特にそういうのがなかったら今もしんどいと思う。

先日友人に、あなたはいろいろやってるけど、どれもある一つに対して「でもこれもできるしな」という留保をつけ合っているような感じだよね、みたいなことを酔って偉そうにいってしまったのだが、まさにこれは自分もそうだったし、ともすれば今も陥りがちなことだよなと反省した。ギターに対して歌。ブルースに対してファンクとかソウル。作曲。音楽に対して英語とか、絵とか。誰に言うともなく「でも僕、これもできるんです」と表明し続ける。
自分と、自分がやると決めたものに対する自信のなさがそうさせたのだろう。だからそんなことを人に指摘したところで、すぐどうにかなるものでもない。

まあいろいろ観点を持つのはいいことではあるし、今も音楽以外になにか楽しいことを見つけたほうが、音楽にもフィードバックあるし、とも思っている。だからなおさら友人に言うのはおかしいのだが、ひとつの考え方として提示するのはありだったろうか。

師匠に、「あとは腹をくくるだけ」ということをしばらく言われてたのだけど、その真意は、別に人生を賭ける覚悟しろとかそういうことではなくて(まあそうなのかもしれんけど)、たんに「ブルースをやる」と決める、それくらいのことだったのかなと今にして思う。

國分功一郎が、『哲学の先生と人生の話をしよう』のなかで、決断というものは時間をかけてだんだんなされていくことで、今! というときにがらっと変えてしまうというようなものではない、みたいなことを言っていた。最終的には、もう状況がそうなっていて、仕方なしにそうする、みたいなイメージだと。うん、この話も彼にはすべきだった。自分だって4年ちかくかけて、そうやってきたのだから。

どうでもいいことだけどミンティアよりフリスクが、モンスターよりレッドブルが好きだ。味がというかパッケージが。べつに誰が見てるわけではないのだがモンスターの缶を机に置いてるのは少し恥ずかしい。ミンティアは今日何の気なしに買ったらルフィの絵が描いてあったから、いま裏返して置いている。

レッドブルはともかく、フリスクのケースの無駄にしっかりしたつくりは好きだ。ミンティアのほうがポケットに入れやすいし、環境にも優しそうだが、フリスクのやや無骨くらいのデザインが好きだ。なんとなくいうなら七〇年代とか、九〇年代のデザイン。でもミンティアは九〇とかゼロ年代っぽいな。調べたら九六年。なるほどそういう感じだ。まあ九〇はおまけで、七〇年代っぽいのが好きかな。そしてそれはおもに音楽の趣味からも来ている。ギターにしても六〇年代のデザインはクラシックすぎるし、その業界では王道になりすぎて少し気恥しい。

ミンティアのパッケージのシールの端に「OPEN」と書いてあったので剥がしてみたら中から全面にルフィのイラストが出てきた。勘弁してくれよ。

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