2024.10.1(ケンタウロス)

 ね、ねむい~~~。

 昨日まで同期が同じ案件にいて、都度都度「ねみー」だの「だりー」だの言うてたんだけど、とうとう転職していなくなってしまった。かなしい。俺とタイプは全然違ったけどちゃんと話の出来るいい人やった。

 情けね~と思っている。そう思わざるを得ないことがいっぱいあった。ブルースにいつまでたっても覚悟決めきれてない自分。それを喝破されて動揺して八つ当たりじみたことをする自分。何やかや文句言いつつも今の仕事をだらだら続けざるを得ない自分。そういう自分の弱さ。自分は弱く、しばしばその弱さのために他人を攻撃したりする。そういう情けなさ。30にもなるというのに自立していない、この自立していないというのは経済的なところにかぎらない。しかしこういうことを書くことがほかの人の首さえ絞めうる、それはいやなので書いておくが、これはあくまで自分の気分的な話であり、自分がずっと放置している――まあ、まわりまわって少しずつましになっていると信じたいが――弱さの問題だ。俺だけの問題である。

 少しずつ対処法を身につけては来ている。気持ちが落ち込むときの深さは軽減してきたし(たんに薬の効果?)、身体と精神の問題を関連付けつつ、相乗効果で落ち込むようなことを減らすことができてきている。身体が嫌だと言っていたらそれが自分の素直な反応なのだからなるべく聞いてやること。身体の反応を責めても仕方ないし、責めることで事態は悪化する。それを理解すること。

 自分の役割だとか、特性。俺の人生で何をすべきか…。なにならできてなにならできないのか…。そういうことを把握するのに俺の昔からの思考のクセとか、なんとなく満たされない感じ、ざっくりいうと自我、そのあたりが邪魔している。俺はなんでも一番だと思おうとするクセがある。どこかで世界一頭がよくて、正しいんだみたいな誤った思い込みを抱えており、それが揺らぐと動揺する。子供みたいなことだ。そういう変なプライドを取り払うにはどうしたらいいのか? …でもそこまでわかっているなら、それが頭をもたげたときに逐一修正していくというだけかもしれない。

 昔先輩と面白半分に「自意識を乗りこなす」ということを「自意識ロデオ」と呼んでいた(これが全くできなくて自意識だけで生きてる状態を「自意識ケンタウロス」と呼ぶ)んだけど、まったくもって自分は自意識にしばしば落馬寸前まで振り回され、それが落ち着いたときにそういう自分をことのほか恥じる。手綱の取り方を練習するしかないのだろうか? それとも馬そのものから降りる方法はないのだろうか。それは解脱か?

 まず現時点での意識の主体が、自分なのか、馬なのか、を早く気づくことだろうな。自分の頭が馬になっているときは(ケンタウロス状態)、自分がどっちなのかもわかりようがない。そうではなくて、自分と馬を眺めている第三者みたいな視点があれば、頭が馬になってても気づけるはずだ。そんなことができるのかは知らんが。

 東京の空/今日も/星が/ひとつも/なく
 ため息が白く/中一からやり直したい

 今日はプロジェクトに新しく入るおじさんの面倒を見ている。感じのいい人で助かってる。正直忙しかったがなんとかなった。これで暇だったらむしろしんどかったかもしれん。

 あ~帰りたい

 こういうことを言う相手もいなくなってしまったなあ。

 実家に帰るたび襲われる、「うだつのあがらないまま老父と二人で暮らしている俺」のイメージ。それがここ数年の自分の選択によっては現実になりうる、というのがどうも最近感じられてならない。だけれど、それに前ほどの恐怖を感じていない自分もいる。これは良いのか悪いのかよくわからない。べつにいいじゃん、とは思わないけれど、ただそれに怯えていても仕方がない。実家を逃げるように出たのは、単にそういうタイミングというのもあるけれどおそらくそのイメージから逃げていたんだろうと思う。自分の感じている、自分のどうしようもなさ。その象徴がその「未来の自分」像である。

 こういうことを平気で書けるようになったのは成長なのかもしれんけど。

 あ~~きつ。

 みんなこういう微妙な「できなさ」みたいなものを抱えているんだろか。俺みたいにボンボン書かないだけで。

 

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