2023.8.21(ごにゃごにゃ)

増田薫さんが「ツイート日記」というのをやっている。自分のツイートを引用で貼り付けて、補足のような形で文章を連ねていくというもの。
ほとんどの気づきとか考えたことをツイートで発散してしまう自分からしたら「その手があったか!」という感じだった。とはいえ自分のTwitterは鍵垢なのでさっとできない。し、考えたらその場で連ツイにしてしまう。うーん。

自分の中でなんとなく連関があるように感じられるものを雑に繋げて書いてしまうということをよくやる。論理的に正しいことを言いたいというよりは自分が思った「流れ」みたいなものを残しておくためだからまあいいかと思っている。たとえば自分の出身サークルの部室が、「真っ当な」人たちによって「ちゃんと」させられた、ということを、駅前の再開発と一緒くたにして考えてしまったりもする。雑だがそう感じられたのだから仕方ない。もっと微妙な接し方をしなければいけない話題の時はそうする。

自分の考え方、みたいなたいそうなものはないけれど、クセみたいなものはある。あるいは好き嫌いとか。そこに客観性みたいなものはないが、そもそも自分は客観的になんかなれないと感じたりもする。その上でやさしくなりたいみたいな感じが今はある。でもそうすると内輪にだけいい人になるのかな。マイノリティのことを想像できない人に。

そうかといって、主観を手放してはいけないような気もする。さっきの話とは違うな。いい人も悪い人も客観的であろうとする。自分の主観ではなく、もっともらしい理屈やエビデンスを大事にする。それはひとつの正しいありかたではある。でもそれによって自分が否定される被弾面積をちょっと下げているような人もいる。自分の好き勝手なことを言って、ちゃんと間違いを指摘され、そして訂正する、というのもそれはそれなりに一つのやり方じゃないかということも思う。

もちろんほんとは、ちゃんと客観的な論拠を立てなくてはならない。けど、なんか本当の意味で客観的なエビデンスもないのに、客観的なふりをしてる人が多い気もする。それなら最初から俺の主観ですと堂々とやってた方が、バチバチに否定される可能性を孕んでいるだけ、まだしもタチがよいのでは、みたいな、うーん詭弁かも。おれは今低いレベルの話をしているかもしんない。でも低いレベルの人というのがインターネットだと大半のような。

よくわかんなくなってきた。自分でも何が正しいのかわからない。こういうのもずるいか。

酔った。コンビニで物珍しくて買ったバーボンをチマチマ飲んでたせいだ。ちっちゃいコップがついてるやつ。

あ〜。仕事したくないねえ。

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