2023.3.30(ボヤき)

最近の課題は家に帰ったあとの過ごし方だ。音楽でも聞いてればまだいいが現実にはYouTubeとTwitterにかなりの時間を溶かしている。いや~。まあ何回も書いていることだけれども。

帰ったらまず風呂に入るくらいでいいかもしれない。風呂入るのめんどくさいなあと思ってスマホ見ながら引き延ばしていたら一時なんてことが本当によくある。こういうのって一人暮らしならではだなあと思う。一人だといくらでも延期できてしまう。
あと音楽を聴くとかギターを弾くとか本を読むというのはいうなれば遅効性であって、スマホでくだらないリール動画を見ているほうが脳内麻薬の出は「早い」。あれがどうにかなんねえかと思う。もともとスマホ中毒のケはあるが、あの機能って本当にそれを加速させるよ。Tik Tokが特許かなんか取って自分たちしか使えないようにしてくれればよかったのだが(自分はTik Tokはやってないので)、いまはInstagramにもYouTubeにもFacebookにもある。逃げ場がない。Twitterまでやりだしたらどうしようと思ったがTwitterはそもそもそういう早い刺激が流れ続ける場だったな。でもあれが入ったら余計にひどくなる…。

最近ボヤいてばっかりだな。日記を十二万字書いたといえば聞こえがいいが、十二万字ボヤきを書くのはただのヤバいジジイだ。

でも一週間前の日記なんか読み返すと、もっと暗いというか、たとえば五年前にあったことについて「あれはイヤだったなあ」とわざわざ思い出したりしている。そう思うと最近のボヤきはまだ健康的だ。こういう、その時のノリとか気分というのを記憶だけで再現するのは困難だ。だから日記に出力したものを読み返して、「こんな風に考えてたこともあったね」とやるのだが、それとて、書いた時のフィルターもあるし、思い出すときのフィルターもあり、本当にそうだったかわかったものではない。まあ、正確にリピートするのが目的では全くなくて、(そんなことに意味があるとも思えない)ただ、今と当時を比較して、自分は今こういうノリだなとか、考え方変わったなとか、を(なんとなく)計ることができるのはおもしろいかもと思う。じっさい、去年書いたものには、今では全然同意できないような内容もある。
と思って、去年書いていた日記をのぞいてみたところ、やっぱりボヤいていた。まあいいでしょう。飲み会で延々誰かに聞かせているのではないのだし。

頭いい人のTwitter見たり話したりしてると、なんか本よく読んでるなというか、ちゃんとどこかの引用みたいなことをしていて結構びびる。自分も本読んだらすぐ影響されるほうではあるけれども、哲学方面とかには全然明るくなく、人の文章読んでて知らない概念が出てくると「知らないなあ~」と思う。俺は良くも悪くも自分の生活感覚の中でしかものが書けない。そういう人たちにとっては難しい概念も生活の中にあるのかな。まあ、なくても書いていいのが文章のいいところなんですが…。

脳に残ってるどうでもいいキャッシュの整理するか。

・自動車教習所の送迎バスで、降りるときに「ありがとうございました」と言う習慣がみんなにあったんだけど、運転手は「いいえー」と全部に返していた。
別にダメじゃないっていうか、そうする気持ちのほうがわかるくらいなんだけど、その言い方が事務的を超えてあまりにぶっきら棒なので、「言わなきゃいいのに」と思っていた。まあ、言わないとクレームになるんだろうけど…。あれ、どうすればよかったんだろうな。彼の負担を一番減らすには。お礼をしたほうがいいという美徳はわかるのだけど、もう言う側も受ける側も無感情すぎて、ないほうがいいんじゃないかとすら思った。
しかしあの教習所、高台の上の住宅街にいきなりあって、なんであんなところに建てたのか(そして俺は俺でなぜそこにしたのか)わかんないくらいだったな。路上講習も、教習所を出て所定のコースにつくまでが一番難しい。道は曲がりくねって狭い。周辺住民からしても、毎日教習車が何台も走り回ってたらいやだろうに。

これシリーズ化しようかな。こういうのやっていくと、記憶はより強固になるのか、スッキリして消えていくのか?

しかし書いてみると本当にどうでもいい。こんなことより憶えておきたかった記憶はいくらもあるのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?