2023.2.16(米は、ちゃんと研ごう)

自分語りばっかりやってるな、と自覚したとたんなんも書けなくなっちゃって、昨日はお休みにした。そうなっちゃうあたりも自意識の表れでしかないのだが、もうそういうループ自体が出口のないものなので一旦止めようと思う。と書いたものの、いったんそうなっちゃっている以上もうやめられるもんでもないし、開き直れもしない。どこに言い訳をしているんだ? という自分の声が聞こえてくる。こういう書きっぷり自体がもう薄らみっともないような気がしてくるし。自意識の無限地獄だ〜 そもそもなんで自意識がそんなにも醜いものだとされているんだ? 未熟さのあらわれだからか。自分で気づいて嫌な気持ちになるのもまあ自分でそう思っているからで、もう終わりがない。ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものだ。

やれやれ、どうしようかな。もうなんでもいいか? もうレベル低くてもいいか? 年甲斐もなく自分のみっともなさを晒してもいいか? こういうこと書いてるのが一番みっともないが、いいか? もう。

まあしかし、少なくとも自分が書きたいなと思ったことをそのまんま書いてたのは間違いではないはずで、そこに「見られているという意識」を持ち込まない、というのがそもそものテーマだったはずだ。あ〜、こう書いてても自意識で作った垢人形が「言い訳じゃん」って言ってくるなあ。「誰に向かって言い訳してるの?」と。でもなんとなくあきらめがついてきた。もういいや、自分の内面がみっともないっていうのはもうさんざん酔った時とかに知られていることで、今更ブログで自分語り延々とやっていたところで誰に迷惑がかかるわけでもない(本当に)。そうやって「許されながら」生きるのはみっともないし、できれば自律した人格になりたいのは本当だけど、まあそのぶん人のあれこれを許すことでバランスはとっていきたいな。そうすることで自分が許されようというのがおかしいのですか?

書いてて口の中に力が入っているのか嫌な唾液が溜まってきた。

こういうのを延々とやっているのが、まあしんどいところであって、そろそろ切り替えたほうがいいんだろうな。でも過剰な自己統御もそれはそれで自意識の反転じゃないのかと思ってしまうしな。これで俺が無難なことばかり書き連ねるようになったところで自意識を克服したことにはならないだろうし。結局そこを出発点にするかぎりはそこから逃れられないんだろう。もう自意識というワードを使うのは止めよう。あと自己肯定感とか。

昔から(これから自分語りが始まりますぞ)「ピューと吹く!ジャガー」みたいな生活が憧れだったなあと思う。アパートみたいなところで年代の近い友達とだらだら暮らすみたいな。そういうモラトリアムの先にあることをあまり想像したことがないかもしれないし、今の自分の生活ってほとんどまんま「そう」なっているな。近所には友達が越してきたし、いまだに音楽やってるし、結婚してないし、古い和室でタバコ吸ったりレコード聴いたりしてのんびり暮らしてるし。その先のイメージが自分でできるようにならない限りその延長で生きてしまいそうな気がする…。でも、まあ今結婚してたとして、なんかそれはそれで「どうなんだろう」みたいな意識は拭えなかったんだろうな。やりたい生活できてるならいいか。いいのか?いずれにせよ悩みは尽きない。どこかで向き合わなければいけない日が来る。むしろ怖いのは、向き合う日がこないままジジイになることなんだけど。
さっきWikiを見たら「どうしようもない大人」の代表みたいに描かれてたハマー(浜渡浩満:氵多っ!)は26歳だったらしい。マジかよ。ひょっとして、と思って銀魂の長谷川泰三(マダオ)について調べてみたらこちらは38歳だった。あと十年あるんだ。よかった〜…とは言えないね。「アビイ・ロード」を出した時のジョン・レノンは29歳だ。どうする?(いまさらどうにもならない)

とかいってたらご飯が炊けた。引っ越して以来、適当に一回だけ研いで、炊飯器に突っ込んでセットというのを繰り返して「美味しくないな〜」と思っていたのだけど、今回試しにちゃんと水が透き通ってくるまで研いでみたら十倍くらい美味しくなった。こういう基本をおろそかにしてはいけないんですね…。なんでもそうなんですよね。ギターも基礎練習が結果大事ですから。あと最近気づいたのは、「古い野菜はおいしくない」ということ。わかるだろという話だけど「本当にそうなんだなあ」と経験することも大事だよな〜。新鮮な野菜とちゃんと研いだお米でご飯を作ってもらっていた人はすべからく感謝すべきだ。

まじで米ってうまいな。こういう丁寧さを積み重ねていくことでしか良くならないのかもしれないな。生活っていうのは。(浅いね)

昆布だしの納豆をかけて食べたのだけどうますぎて物足りなかったので、バターごはんに昆布つゆをかけて食べた。これも最近気づいたことだが、かつおだしより昆布だしのほうがどうやら好きだ。味にまろみがあって。使いようではあるのだけど。

インスタのリール動画でたまに流れてくる動画。ボサノヴァに全く明るくないので、「いいよね〜」としか言えないんだけど。こういうことやれる人って今もいっぱいいるんだろうか? ギターを一本持ってきてさらっとショウにしてしまうみたいな。エド・シーランがどんな曲も4つのコードで歌えちゃいますよっていうのやってたか。
そういえば坂本慎太郎がこんなこと言ってたな。

Q70 ミュージシャンでよかったと思うことは?
「ミュージシャンっていわれるのがいまだに後ろめたいというか、こっぱずかしい感じがあって。僕の中でミュージシャンっていうと、ギターが1本あったらそれだけでどこへ行っても人を楽しませられるというか。たとえば外国に行っても、たまたま店にあったギターで何かやって、それでお金がもらえるって感じがするんですけど、僕の場合そういうんじゃなくて、やっぱりよくわかんない感じの……まあ、そんなような気がしてるんですよ(笑)。なんもできないし。今ここで何かやれっていわれてもできない。外国の知り合いの家に行って、外国の人がいっぱいいて、そこでホームパーティーみたいのがやってて、日本から来たミュージシャンですって紹介されると、何かやんなきゃいけない空気になるじゃないですか。それがほんとに無理だから。でもやる人はやるじゃない。そういうのがミュージシャンだと思います。僕は、バンドっていうのがあって、ライブっていうのがあって、そこに出て行ってああいうことがやれてたっていうのがあるんですけど、ひとりになって、何かやってみろっていわれた時に困っちゃうんですよね。そういうメンタリティもないしね。だから元々人前で何かをやりたいわけじゃないんですよ。それが間違っちゃって、フジロックのでかいとこでギャーとかいってたんですけど、そもそもそういう人間じゃなかったのになってやりながら思ってるから。それは僕だけに限らず亀川くんなんかもそうだったと思うし。だから僕は、すごい好きな感じの音楽があって、そういうのを作りたいっていうのはあるんだけど、それってなんかこうギター1本でやる一芸的なものじゃなくて、パッケージされた曲であったり、バンドがあってそこでやる何かだったりしてて、そういう枠を取っ払った時に、なんもできないっていうか。一回沖縄で打ち上げやった時に地元の人が行くような飲み屋に行ったら、自然にみんな、店の親父とかも三線もって歌いだして、客も参加しだして歌とか回しあっちゃったりして。ミュージシャンだとわかったら絶対歌わされるの目に見えてるし、けど歌わないと雰囲気ぶち壊しちゃうからそれもいけないなと思って、こっち来んなよってオーラをビンビン出してたんですよ。ああいうの、ほんと困りますね」

http://www.pia.co.jp/100q/206/page3.php

ながーい引用になってしまった。坂本慎太郎は、そうだろうな〜という感じがする。

自分はわりとそういうところで振られて目立つのが好きなタイプなんだけど(ギターが置いてある飲み屋とかいくと絶対「弾いていいですか?」というのをやる)自分がそういうのに寄りすぎるとしょうもなくなっていく気もする。関係ないか。ブルースマンだったら絶対サッとできるもん。どこにウケるかというとこだろうな。分水嶺は。どうでもいいですね。

しかし「ミュージシャンでよかったと思うことは?」という質問にこの返答してるのさすがだなあ。結構長いし。でもこれは本当に印象に残っている。

なんとなくペースを取り戻してきたんで、このへんで。

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