2024.2.5(やたら長い)

割と充実の週末だったな。金曜はたくさん練習できたし、従兄弟と飲んで映画とかクラシックとかの話も聞けて。土曜は一日散歩していたし、日曜はストロークスの宅録してGaragebandの扱いにもだいぶ慣れることができた。あと英語のアプリを入れた。ELSA AIてやつ。これはけっこうおもしろい。音声認識での発音矯正を会話形式でしてくれたり。高めのプランだと、AIとフリートークができて、そのうえ終わったあとに会話の内容を分析してフィードバックをくれる。人間の英語教師が不要になる、というような飛躍をする趣味は俺にはないが、しかしこれは相当なものだ。人間の英語レッスンに比べると、まず安いし、予約する必要もなくて…このあたりはいわずもがなだからいいか。人間相手でないぶん気を遣わんですむところ(それでも最初に発話するときは緊張するけど)、対話型AIとは関係ないが、自分の言った内容が即座に文字に起こされて、自分が何を言ったのか、どこで発音を間違えたのかわかること、フィードバックが非常に、なんか、人間的でない…数値で分析されて出てくることがかなりすごい。

実際の会話はAIのようにはいかないので、いずれにせよ、という話もないではないけれど、すくなくとも初歩的な段階で英語の先生にやってもらうこともいってみれば壁打ちみたいなことで…単純化すると英語を声に出して話して、それを矯正してもらうということでしかないので、正直AIでほとんどできちゃうなと感じた。まあたまたま俺のニーズに合っただけかもしれない。基本的な文法とかは頭に入っているし、それなりには話せるけれど、とにかく日常で声に出して英語をしゃべる機会がなくて、でもオンライン英会話もなんか予約したりすんのだるいんだよなあ、結局身になってるんかわかんねえし…単語とかメモするのも面倒くさいし…細かい発音いちいち直してくれるわけじゃないし…直してくれたとしてもなんか気を遣っちゃいそうだし…てか週一でたかだか30分話せたところでなあ…みたいな。

しかし、ことELSA AIに関していうといまいち人に勧めづらい。海外のアプリなんだけど日本語化がいまいち終わってない感じで、メニューとか、きまった文言以外はまじで英語のままだから。ネイティブの発音講座みたいな動画もあるのだが全部英語だし、例のフィードバックもふつうに英語の長文。翻訳機能はついてるっぽいけどなんか押しても反応しない。まあ、おれは幸いそのくらいの文章は読めるし聞けるので問題はないものの。しかし英語学習アプリがそのまんま英語で提供されてるってどういうことなんだ? 中級者以上向け、なのか、なんなのか。どういう層に向けて開発されたのかいまいちわかりづらいところがある。たまたま自分に合っていただけ。

話はずれるが…よく日本人発音とか言って揶揄されるけれど、インドの人とかはインド人英語で堂々としゃべっているわけだし、南米の人も、アメリカ黒人の人にしても特有のしゃべり方はあるわけで。こうやって「ネイティブ」発音…つまりアメリカ白人英語の発音、に矯正していくことを絶対的な目的にするのは危うさを感じざるを得ない。フィリピンだって半分くらいは英語が公用語なわけで、彼らの発音は「ネイティブ」じゃねえのかよ、という…まあ、nativeという言葉の意味を原理的に考えればそうなるが、なぜ彼らが英語を公用語にせざるを得なかったのか? ということを考えれば、なんだかとても間違った思想に思えてならない。もちろん日本も同じことをやったわけだけれど。結局英語が「世界の公用語」かのようになっている現状、勉強すること自体がそれを追認することになるというのも思わなくもない。が、英語を話せると便利なことは事実なわけで…すくなくともそういう前提は頭に入れたうえで、勉強とかもしたいものだ。

Netflixに出てるトレバー・ノアのスタンダップコメディが好きで、たまに観るんだけど。彼は各国のaccent...訛りの物まねが得意で、イギリス、インド、ドイツ、南米、ロシア、アフリカ(彼の生まれはアフリカである)などなどの発音をまねて笑いをとることをよくやる。彼がリスペクトを込めてそれをやっているのは芸風を見ても伝わってくるのだが(欧米の植民地主義の歴史にはつねに批判的だ)唯一アジア訛りのものまねだけはやっているのを見たことがない。たぶん揶揄され差別されてきた文脈が乗っているからだと思う。(上にあげた国々がそうでないということでもないのだけど)

話がとっ散らかってきたな。まあ、しかし、日本人がカタカナ英語で堂々と交渉したりアメリカのテレビに出たりするのが当たり前になったらいいのにと…思うかなあ。思いついたけれど。なんか、結局それも資本主義っぽいっていうか、経済的なりなんなりのパワーを獲得するしかないみたいな話になっちゃいそうだもんなあ。

英語のアプリの話からずいぶん広げてしまったな。そもそも自分が久しぶりに英語をやりたいと思ったのは、ブルースを本物のように歌いたかったからだ。さきに書いたことと少し矛盾するようだけれど。まあ、いずれは自分のルーツに根差した表現を志向するにしても(といっても俺の子供時代にそんなに強烈な日本古来の音楽とかを聴いたことはないのだが)、今はあんな風に演奏したいし、歌いたいわけだ。いってみればそれは俺たちにもできるんだということを証明するということかもしれない…。ブルース・コンプレックスでブルースをやっているわけではないつもりだけれど、俺(たち)がブルースそのものを本当に演奏できたとき、それはコンプレックスからの解放も同時に意味するだろう。その影響は、ことによると我々だけにはとどまらないかもしれない。

ずいぶん筆が乗ってるじゃありませんか。

え~と。

昨日The Strokesの「Soma」をちまちま宅録していた。ストロークスは(最近のはどうなのか知らないけど、俺が好きな時期のアルバムは)ほぼ厳密にギター2本、ベース、ドラムだけでアンサンブルを作っていて、しかもドラムも打ち込みのようにシンプルに叩いているので宅録の教材としてはぴったりだ。まだ途中だけど、結構これが勉強になった。全員分の楽器を自分でやってみないとわからないことがある。

たとえば、最初ドラムのグルーヴがいまいちなまま(なんだったらスネアを一か所入れ忘れてロネッツみたいなパターンになってしまっていた)ほかの楽器を録り進めた。あとでそのミスに気付いてドラムを修正したけど原曲の感じが出ない。それで、ギターとベースを録りなおした。そうするとだいぶんよくなった。いまボーカルがドラム修正前のままなので、やっぱりそれは浮いている。

あと、ベースを弾いたのがことのほか勉強になった。合計10分も弾いていないけど。
原曲のスピード感を出したくてギターは少し前気味につっこんで弾いていたので、ベースも最初そういう風に弾いたのだけど、そうすると打ち込みのドラムがもたもたして聴こえて全然ノリが出ない。それでベースを少し後ろのタイミングでゆったり弾くようにしたら結果的に全体のスピード感も出てドラムもかえって活きるようになった。

まあ少々飛躍してまとめると、全員がメトロノームのタイミングにきっちり合わせても演奏は生きてこない。グルーヴも音圧も出ない。これって知識としてはそれなりに共有されているだろうけど、実際に体感してる人って日本にどれだけいるのかな? バンドでやってもこのへんが結構あいまいになっちゃうんだよね。自分でやってみないと。

よく見る動画で、キャロル・ケイが「メトロノームがグルーヴするように弾かなきゃいけない」と話しているものがある。トモ藤田なんかがいい加減に引用したりして独り歩きしているが、今回少し意味が分かった。タイミングだ。ベースとギターのタイミングは違うと前々から聞いてはいたけれど実際に録って検証したのは初めてだった。そういう芸当がいつの間にかできるようになっていたのも驚き。いやはや。ブルースについて教わっているのがこういう風にも生きてくるとはね。

師匠なんかはブルースを宅録して勉強しているけど、こういう効果があったのね。ブルースは難しすぎるんで、James Brownあたりを教材にやってみようかな。ブラスセクションない部分だけやるとか。

話は変わって。

オモコロのラジオが最近結構ニュースっぽい話題も取り上げるようになって、コメント欄が荒れがちになっている。それはいいのだが、例えばきのうはコンビニでレギュラーサイズのコーヒーを買ってラージのボタンを押して数十円分ケチるということを7回繰り返したどこかの校長が懲戒免職になり、退職金2000万もなしになった、というトピックを扱っていた。パーソナリティはみな、「確かに犯罪だし悪いことではあるけど怖すぎる」という見解だったのだけど、結構「犯罪なんだから当然の処置」みたいな、まあ…個人的にはすごく類型的に思えるコメントが散見されて、ウワーと思った。まずこういうことを言う人は与党の裏金問題とかはきちんと批判しているのだろうか。なんか、自分が想像できる「罪」の範囲でしか人を叩くことをしないのではないかと思える。そりゃ、コーヒーのサイズをごまかすのは万引きと同じで犯罪である。でも、「だって犯罪だから犯罪じゃん」レベルの考えしかないんじゃないの?と思ってしまう。今回は校長という立場の偉い人間だからちょっと話が微妙になるけれど、たとえばこれが子供みたいなやつであろうと、孤独なおじさんであろうと、同じようなことを言うのだろう。醤油差しをなめたガキのときのように。自分は絶対に道を踏み外すことはない、あるいは自分が当たり前にやっていることが今後違法になることはないと思い込んでいる。遵法意識ばかり高くて想像力のない国民ほど御しやすいものはないだろうね。まったくいやになる。

まあ俺だって高校生とかの時は似たようなことを思っていたし、彼らも若いのかもしれない。「犯罪を犯すようなクズはそうなって当然」というような。
結局、若いうちは…若「すぎる」うちは、とにかく自分の半径5mくらいの世界しか知らなくて、その常識が世界の常識だとほとんど疑わない。小さな世界しか知らないから小さな世界で行われる「罪」にしか目がいかないし、自分の目に入ってこない、結果的に犯罪者となった人間の事情とか人生など想像しようともしない。

つまり、政権の巨額の不正とか、あるいはほかの国で起きている戦争とか、差別とかは想像ができないので批判しない。彼らが想像できるのは生活保護の「不正受給」とか、小さな犯罪だけで、結果その攻撃の矛先は弱者ばかりに向かうことになる。たいした隣組だ。

若いうちはしょうがないかもしれない。けれどそういうレベルのまま成人した人間がたくさんいる。インターネットを見ていて一番嫌になるのはそういう人間に行き当たることだ。まあ若いからというのは違うかもしれないな。幼稚な、と言い換えよう。

オタクの自民党好きはどこから来たのか。自分の記憶ではそれは「ローゼン閣下」の時からのノリであったように思う。麻生太郎が「ローゼンメイデン」を読んでいたという話で、「自民党は俺たちの味方だ!」となったあれ。まあTwitterも黎明期だったしそういう素朴さは仕方ないところもあるが、いまだに麻生太郎の視察の写真を持ち出して「マフィアのボスにしか見えなくて草」とかやっている。恥ずかしくなんないんだろうか。人間をアニメの「キャラ」のようにしか消費できない未熟さにしろ、体制を無批判に受け入れて思考停止していたいといった…なんだろう、甘え?にしろ。

数年前まさにそういうノンポリ(というのはつまり現状の追認であり、保守でしかないわけだが)の先輩と後輩が「政権を批判するなら代案を出せ」と言っていたのがいまだに「あ~あ」という感じで憶えている。なんでだよ、でしかないのだけど。それは当時は、考えたくない人にとっては「考えさせようとしてくる」人を黙らせられる魔法の言葉であった。今はそうもいくまいと思うけど、彼らは変わったんだろうか?

まあ、こういう(俺の)攻撃性も、もともとネトウヨだった時の裏返しでしかないのかもしんなんで、この辺にしとこうか…。

右手が筋肉痛だ。これはどう考えてもハウンドドッグテイラーの練習を数日やっているからだ。なるほど、ちゃんと練習すると筋肉痛になるんだな…。これまではあんま練習してなかったのだ、とそういうことになる。

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