2024.1.15(異様な街)

ふーむ。結構きついっす。何度でもいうけど週休二日って、どんなに充実した過ごし方しても足らないなと思う。友達とか恋人と楽しく過ごしたって、それはそれで一人の時間とか、体力回復の時間が必要になる。逆に寝だめして体力回復に努めたとて、ただ二日間寝ただけでまた労働に戻るのでは心がもたない。合理的ですらなくて、ただ「そういうものだから」続けられているにすぎない。それか、そういう生殺しの状態を作って、ものを考える余裕を奪うためのシステムなのか。こないだインスタで流れてきたことで真偽不明だけど、週休二日制を作ったのはヘンリー・フォード、らしい。ふざけるな、といいたいところだが、今ちょっとググったところによるとむしろそれは、もっと少なかった休みを増やして給料を上げたということらしい。うーんそうなの。まあ、だからいいか、とも言い切れないけど。

土曜、どっか行こうかという話になって、桜新町の長谷川町子記念館に行ってきた。長谷川町子と姉が個人的に集めた日本画を展示しているという、あまり刺激的とはいえない施設だったが、グッズの類はけっこうセンスが良くてちょっと買おうか迷った。そもそもそんなにサザエさんに思い入れがないのでやめてしまったが、もう少し天気が良くて機嫌がよかったら買っていたかもしれない。なにしろもともと日も差さず寒かったうえに、強めの雨、ついには雪が降ってきてしまったので。もう完全にがっくりきてしまって、彼女には悪いことをしたと思う。

桜新町に行く途中である町を通ったのだが、これはなんだか異様なところだった。具体的に何がと指摘はできないのだけど何かがおかしい。ただの住宅街なのだが、どう生活しているのかが見えない。家の並びかたに何か違和感がある。いや、住んでる人には申し訳ないけれど。あ、ひとつはっきりおかしいことがあったな。変哲ない民家の前に「ご自由にお持ちください」と不用品を並べているやつがあった。まあ本当に要らないな、という小物やら置物がならべてあったのだけど、一冊だけブックカバーをかけた本があって、開いてみるとエロ漫画だった。けっこうえぐめの。なんかそれ、おかしくないか?…明らかに自分の家だとわかるところにそんなん置くか、っていう。
そういえば、あまり人とすれ違うこともなかったような気がする。

いつも書くことないと自分語りになってしまうんだけど、今日はそんな感じじゃないな。ウロマガ読むの再開したからかな。見たものについて書くみたいな…。それか、久しぶりにあまり行かないようなところに外出したせいか。まあいつも家の近辺から出ないからな。なんとなく億劫で。昨日は渋谷にも行った。レコードを6枚くらい買った。普段見ない量の人間がいて、わかっちゃいたけどそれだけでちょっとぎょっとした。なんか、友達と遊ぶにも世田谷のいつものコースが決まってきているし、たまにはあんまりいかないところ行かなきゃあね。なんか…映画とか、美術館とかか?わかんないけど。

何をするにも「それ本当にやりたいかな」とか、「意味あるかな」みたいな、まあ「億劫だな」の変わり身だと思うけど、そういう意識が湧いてきて、結局部屋でゴロゴロしてるということが多すぎる。億劫というのもあるが、なんか「しなきゃいけないこと」がどっかにあって、外出するとそれをできる時間をつぶしてしまうような…そんな感覚がある。映画とかを観る前に「2時間かあ」と思ってしまうのも同様だ。結局家にいてもそんなにたいしたことはしないのは分かりきっているけど、おおげさにいえば「可能性を可能性のままにしておきたい」のかもしれない。一日ですることの選択肢を選択肢のままとして放置するみたいな。そういうところは人生でもありますよ。まあ。

そこがね、うまくいかんのだよなあ、と思う。まあ毎日忙しくあれこれ自分で予定を入れるということがかならずしも正しくはないけれど、なんかしたほうがいいなと感じているならそうしたほうがいいかなという話で。

さっきの奇妙な感じの町についてまた考えてみようかな。ちなみに先日、そのことについて師匠夫妻に話したら、二人とも「ああ、あそこはなんか変だよね。嫌な感じする」と(職場が近いのだ)言っていた。普段からそういう話をしがちでもあるが、すぐそういう反応が返ってきたのでちょっとおどろいた。やっぱり? 

さっきも書いたけど、家々、というかパーツ自体はよく見るものなのに、並び方になじまなさがある。彼女は、「田舎ってこんな感じかも」と言っていたけれど。そういうのともちょっとちがった違和感。まるで誰かが平均的な町を人工的に作ったかのような…。むかし、FLASHゲームで「実家からの脱出」てのがあったけど、ちょっとあれを思い出すな。どこかにはあるんだろうけれど自分の生活実感のなかには存在しない町。ネットの知らない誰かが写真に撮った画素の粗い「実家」。うまくいえないな。ほかの人は、あれにまったく違和感を覚えないのかな?

桜新町にしてもあまり合わない町だった。マクドナルド、スタバ、KFC、吉野屋、松屋、タリーズ、ドトール、ラーメン屋。あらゆるチェーン店があって、便利は便利なのだが、なんかオモコロの人が作った町みたいだなと思った。なんか田園都市線ってちょっとそういうイメージあるかもしれんなあ。三軒茶屋は多少のカオスがあるけど、川崎のほうとか行くと…なんか、なんだろう。ベッドタウンの感じってああいうのなんだろうか。沿線の雰囲気ってあるよねえ。中央線とか。中央線はむしろ好きなタイプだけど住むのはいやだ。あの濁った感じが好きだけれど、住むとなると身を持ち崩しそうというのか。

なんかねえ。こう…自分の「肌に合う」かどうかの直感は、人にしろ土地にしろ、最近かなり気にする。オカルトの領域にちょっと入ってくるけど(そのうち俺が風水の話とかし始めてもみんなあまり驚かないんじゃないか…)。うーん。あーでも、自分にとってこういうのは「今日調子が悪いのは気圧のせいだ」というやつの延長かもしれない。気圧も目には見えないし、実際自分のメンタルの落ち込みがどれだけ気圧によるものなのかはよくわかってない。わかってないがとりあえずそこに原因を求めると自責からは抜け出すことができる。去年から俺がやってきたことっていうのは、とにかく自分が落ち込んでにっちもさっちもいかなくなる事態を回避するためにその要因となりそうなものを遠ざけるということだったかも。だから音楽的にこの人とは相容れないとなったら距離を置いたし(そうしないと自分が動揺するから)、自分と違いすぎる人についてわがことのように考えると訳が分かんなくなって落ち込むから旧友とも一度縁を切った。

こうは書いたけれども、「自分に合わないもの」「理解できないもの」を排除することが正しいとは信じていなくて。世界には「合わない」人がいっぱいいる…というかたぶん世の中の80%以上はそうなんじゃないかというのが、まあ世界をリアルにとらえようとするなら事実っぽい。でもそのリアルを直視しようとすると、世界の解像度を高いまま引き受けようとすると、自分はいまいちもたない。かといって自分の世界をビオトープみたいに完成させようとしすぎるとまたそれもおかしい。まあ世界のすべての人と接触することは当たり前に無理だし、完全にクローズドな人間関係を作ることもまた不可能なので、どういう風に自分なりにバランスを取っていくかということでしかないが。

時期かなあ。違う言い方をすればタイミング。いま、俺には、社会でなんとか生き抜くために、そういうよどみの中に一度身を置くことが必要、みたいなこと。

まあ今日はこの辺にしておこう。久しぶりに脳が動いた感じ。知らんけど…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?