2023.9.25(炒め物 with no name)

出社。脳みそが起きない。しかし起こしたくもない。できればまどろんでいたい。ここで、「仕事中にぼんやりしているのは良くないから、切り替えよう!」と顔を洗ったりするほどに自分は社会人の規範というものを内面化していない。早目にかけたほうがいい電話が一本あるんだけど。十分したらかけようかな。

ただでさえ余裕ないのに、やっとつながった電話でまたちょっとよくわからん話が出てきてかなり厳しくなってきた。どうでもいいんだけどなー。帳票のマイナスとプラスがどうとか。

ああめんどうくさい。宮崎駿は大事なことは面倒くさいとなんかで言っていたらしいが面倒くさいことが大事だとは限らない。

先日の飛び入り。自分の至らなさとか、感じることはあったもののやっぱりそこまでぐんと学んだことってあんまりなかったな。Johnnyはやっぱりうまかったけど、バンドでどう空気感とかグルーヴを作るかとかはわかんなかった。そもそも彼以外のバンドメンバーはいつも日本のセッションだので一緒にやってる人だったし。その中でどうアプローチしてくるのかということは興味があったが、あんま実りがある演奏であったとはいいがたい。

まあ、酒の勢いは借りつつ、キャリアの長いアメリカ人相手に飛び入り交渉するっていう経験は結構よかったと思う。話には聞いていたけど確かに初見の人にはかなり冷たかった。「フーン…」って感じで。「あなたの動画見て勉強してます、あなたを不快にさせたいわけじゃないけど、なんとか学ばせてください」って食い下がってやっと「…まあ、いいよ。名前何?」ってOKしてくれた。じっさいやってみて、しょうもない演奏もしちゃったけど、「おっ、いいじゃん」みたいな笑顔をくれる瞬間もいくつか作れたので、まあ結果オーライか。

英語それなりにできて良かったって思う。終わった後いくつか質問したらちゃんと答えてくれたし。といっても、「Eddie Taylorのタイミングはどうやるの?あなたは一緒にやったことがあるの?」⇒「実は一緒にやったことがなくて、頑張って練習したんだ」「あなたに教えてくれたブルースマンは誰?」⇒「Sam Layと、Dave Waldmanと、Johnny B. Mooreだよ」そのくらい。もっと聞きたいことはあったけど時間がなかった。昨日蒲田でやってたライブもちょっと行きたかったが、あまりにも疲れていたし、充電もなかったし。まあでも真面目には答えてくれたなとは思う。「フィーリングをつかむんだよ」みたいな、あいまいな表現でちょっと流された感もあったものの。

しかし自分、むらがあるなあ。先週なんか全然練習できなかったし。気候のせいだと思うが本気できつかった。昨日やっと、天気よくて、寝るときも涼しくて、だいぶ回復した。なんか、なんだろう。やっぱり自分のコンディションを整えないとできることもできなくなるっていう。

生産性爆上げみたいなのって恥ずかしい言葉だし、生産性を上げようみたいなノリで生きていないのだが、「調子いい時ならできることも今はできない」って思っちゃうと、やっぱりもったいないと感じてしまう。自分で自分をハンドルしつづけられない、ってマインドセットがやっぱり強い。仕事についてはそれなりに適当にやりたいと思うが、自分のやりたいことくらいは毎日続けていきたいものだ。

今日急ぎでやんなきゃいけないと思っていた(というか、実際やんなきゃいけない)仕事について、確認依頼したけど担当者が休みなんで明日回答しますときた。まあ最初に俺がのんびりやってたのが悪いんだけどこうなるとどうしようもない。月末までなんだがそれまでにチェックをいくつも通して準備するのは正直無理だ。期限のばしてもらうしかない。いずれにしろわざわざ出社したのに、今日やることがなくなってしまった。埋め草のような仕事をして時間をつぶすか。あーあー。うーん。後手に回ったなあ。こういうの子どもの時からやってる。電話一本かけるのがなかなか俺は調子よくないと難しい。後回しにしてたらこれだ。あーあ。でも、正直、こんな軽微な修正のリリースが数日遅れたからなんなんだよと思う。大量の迷惑がかかるようなことならさすがに気が焦るけど。

『チョンキンマンションのボスは知っている』という本を読んだ。香港にグレーな滞在を続けながらビジネスをし続けるタンザニア人たちの商売、コミュニティ運営、考え方みたいな話。こういうのを読むと多少自分がいる価値観を相対化できるのでいい。たとえば「カラマ」という商人はいつも遅刻してくる、ダメなおっさんみたいだが、実はそうやって主導権を相手に渡さないようにしている、とか。対等なビジネスパートナーとしての関係を築くための戦略なんだって。香港人は金を稼げないことに怒るが日本人は真面目に働かないことに怒る、なんてフレーズもあった。まあこんな風に都合のいい引用をするとまるで自己啓発本の類みたいだが、研究者の人がフィールドワークのなかで書いたちゃんとした本だ(エッセイという形はとっているが)。

ああ~。なんか、別に俺って、たとえば文学とか、芸術だとか、そういうのに感度が高いという人間でもないんだろうな。なんとなくノリの中にはいるつもりだけど、きちんとリベラルとして自分の考え方を持っているわけでもない。なんとなく自分を配置する母集団というのがあんま想定できない。別に一匹狼ということではない。すぐ人の意見に流されるし。ミュージシャン的な人間でもないと思う。周りにはもっとなんかよくわかんないけどミュージシャンっぽい人っている。なんだろうね。オーディオオタクみたいなもんなのかな。とにかく本質的に良くしようってことをあんま理解得られないままやってる、みたいな。

うーん? いまいちピンと来ないわ。自分でも。

あ~あ。しかし、先週はさんざんだったな。全然練習できてない。というか何もできなかった。なんだったらまた感覚が狂ってしまった感じがある。連続してたものが一回切れて戻ってしまった。まあ取り戻すことはできるはずだけど、時間無駄にしたなーと思うとややテンションが下がる。

ZINEの打ち合わせ楽しかったな。さきも書いたけど、自分が引き合わせた二人が上手くやれそうかどうかってすごく気になってしまう。幸いにして、ZINEの内容だけじゃなくて文章とか、出版業界の動向とか、考えかたとか、三人でいろいろ楽しく話せて本当に安心した。どっちもきちんと相手とコミュニケーションを取れる人であることはわかっていたが相性のようなところは会ってもらうまでわからないし。

でもそういうのがうまくいったときの喜びがあるのよな。面白いなって俺が思っている人と人がかみ合ってくれたとき、なんかとてもうれしくなる。自分という人間がその邂逅にかかわれたというのもあるし、そういう人同士が知り合うことでなんか世界が少し面白くなるような気がするし。言いすぎかな。まあ、そのくらい言いすぎてもいいだろう。べつに今後仲良くしてほしいとか、そこまでは望まないけど、少なくともある一日が楽しいものになった、それだけでとりあえずよかったなと思う。

しかし俺は人に対してこういうポジティブなことも書けるのに、わりと日常的にはネガティブにとらえがちなのはどういうことなんだろうな。

人への期待が若干大きすぎるのかもしれない。だからしばらく会ってない友達が(俺的に)よくない方に向かっているなと思うとがっかりする。身勝手な話だ。ネットでなんか、許せんなと思うようなものを見ても、なんだかすごくいやになってしまう。気をつけてはいるものの他人のバックグラウンドを自分の見え方に引き寄せて想像してしまうのは本当に悪い癖だなと思う。

さて。こんな文章は、短いほうがいい気がするけど、まあ暇つぶしみたなことだからまあいいか。

先輩と飲んだのも楽しかった。自分の好きなことを(プロゲーマーチームの優勝をかけた駆け引きとか、ドラマ版『三国志』の曹操についてとか)「熱いんだよ!」と、熱量高く、それでいて独りよがりにはならないバランスで語ることにかけては彼は天才的だなと思う。彼が「熱い」と感じる点も明快というか、ポップだし。普段あんまり興味がない俺でさえ「いやっ…それは熱いっすね!!」と、自然と言っている。自分の楽しいことを、「楽しい!!」って気持を全開に話すって簡単なようでなかなか難しい。おれがブルースの魅力について語ろうとしても(トピックとして難しいのもあるけど)そうはならないだろう。「一方的に喋ってしまって申し訳ない」と、少し反省していたけど、聞いてるのが楽しいからいいですよ、と伝えた。実際楽しかったし。

自分が「後輩」っぽい立場になるの久しぶりだったかもしれない。なんか、ちょっと気の利いた相槌を打つとか、そういうのに久々に面白さを見出した。別に内容に対して醒めているとかじゃないのだが、相手のリズムを崩さないようにしつつ一言添えてみたり、なんだろうね。意見交換とか議論みたいなものじゃなくても俺は会話そのものが好きだ。むしろ雑談のほうが好きなたちかもしれない。いい雰囲気で話し続けるみたいなこと。でもその好みによって、自分が本当にシリアスに話す機会を失っているかもしれないけど。それでも、シリアスなトーンの話からしかシリアスな学びが得られないというわけではなくて、軽い話の中で意外と大事なものがころがり出たりすると信じてもいる。

と書いてみたけど、まあどうだろうなあ。自分が、なんか深く話そうとして自分の底の浅さを露呈するのが嫌なので、多少避けてしゃべっているのもあるかもね。まあでもそういうことでミスると、会話自体も変な感じになるっていうか。でももう少しチャレンジングな会話を試みたほうがいいのかしらん。

コミュニケーションにおいて極端に不器用だった自分は、それを「克服」することが正しいと思い続けてきたし、まあ今みたいなある面での器用さを学習した今昔より楽しいことも多い。でもやらかさないようにするという意識はあるかもしんない。それにしてはやらかす方か。

話変えよう。

ん~なんか、あることを言ったあと、でもこういう考え方もあるか、と反対のことを考えようとするのが自分の癖なんだなと思う。上で書いてることなんか考えると。自分の正しさって常に不確かで、なんかそれをそのまま受け入れることで謙虚な態度を取ろうとするっていうのか。これはいつセットしたやり方であっただろうか。なんか、これってすごく単純なやり方なんで、結局取りこぼすものもいっぱいある気もする。自分の考え方というものをもっとたしかなものにするために検証するというよりは、場当たり的というか。

んー。

問題になってた案件の期限を延ばしてもらえそうだし、作業自体はいったん終わってるので、今日は早く帰りたい。

自分の文章が最近つまらない、とこのところよく言ってたのだけど、ZINEのためにざっと全部の日記を読み返してみると、どっちかといえば、文章の他者度合いによるのかもしれないと思えた。まあ文章にした時点でそれは他者になるのだが、出力して数日くらいはまだ自分のものだ、という印象がある。3か月とか4か月とか経過するとなんか読み応えある気がしてくる。新鮮っていうか。

他者といえば、ZINEに載せるために自分で抜粋した日記と全く関係ない、個人的には面白くないと思っていた日の日記が、仕切ってくれている友人が印刷してきたモックアップみたいな仮印刷の本に載っていてえっ!?と思った。おれが期限に遅れてたからとりあえず適当に選ばせちゃった?と。

まあそうではなくて、彼はその日記がいいと思ったらしい。へえ~って、なんかとにかく驚いた。自分以外だとそんな見え方をするんだ。読み返してみるとたしかに悪くないような気もするし、ほとんどの人が知らないような固有名詞をいっぱい挙げててただの個人的なメモ書きって風情もあり、へえ、これが…。と、やっぱりあらためて不思議な気持ちだ。

こういうとき、前の彼女にiPadを渡されて、絵を描いてみて、と言われたことを思い出す。いくつか適当に、そんなにうまくない絵を描いて渡してみると、「いいじゃん!可愛い!」と言われたものだ。「ひとの絵って”いい”んだよ」とも言っていたっけ。言われて見返すと、たしかにちょっとかわいい。なんか神経質そうだけど、あんまり器用に線を引けない感じが。ようは、特にプロっぽい練習をしてない素人がとっさに描いた絵柄って、なんかその人の性格が出るのだ。上手くなくとも、ヘタウマ的な「センス」がなくとも、知り合いの絵ってなにかがおもしろい。

似たことかもしれない。彼はその文章から、「福地っぽさ」を感じ取って、なんかそれがいいじゃんと思った、のかも。

そんなんでいいなら文章が向上していかないじゃん、という考えはたぶん正しくて、事実自分は150本とか日記を書いていながら特に文章はうまくなってない。まあ、当面はいいかな。これでも。

なんて書きたくなるのもなんとなく後ろめたさを感じているからかもしれん。なんだろ。たとえばこういうレトリックはどうか。俺の日記(文章)は、その日の冷蔵庫の中身で作った名前のない炒め物である。上質な素材を使って丁寧に作り上げたものでもないし、炙りチーズと豚バラで強引に食いたくさせるものでもない。ただ自分が食えればいいというものである。

ん~。

なんかうまいこと言ったようで、うまいこと言おうとしすぎなようでもあり。

まあでも、料理にもいろいろな界隈があって、ラーメンのおいしさを競い合う人たちもいるし、料理の地平を広げるために新しいものを作ろうとする人もいる。伝統的な調理法を守る人もいる。自炊でつくるいい加減なめしというのはそのうちのどの界隈の俎上にも上がらない。たまに、遊びに来た友達があんがいうまいね、と食ってくれたら、ちょっとうれしい。そう思うと気が楽だ。

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