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2023.2.13(udauda)

昔からおなかが弱い。男性はどちらかと言えば弱いという話もあるが多分人一倍弱い。どこへ行っても意識のどこかに「今おなか痛くなったら困るな」があるので、たぶん行動の選択にも影響を及ぼしてきただろう。たとえば映画館とかでもどこか落ち着かないし、新宿とかのトイレ確保の難しい街にいるといざ痛くなりだしたときにかなりストレスだ。夜行バスも乗ったことがないが、これもそうかもしれない。
知人の曲で「パチ屋のトイレ ありがとう」と歌っているものがあるのだが、これは革命的なライフハックだ。パチンコ屋ならあらゆる街にあるし、人がいっぱいいるからシレっとトイレを借りてもあまり目立たないし、「意外と清潔」らしいし。でもあまり知られたくないな。コンビニみたいに部外者使用禁止のパチ屋が増えたら困るから。

高校の頃げんふうけい(fafoo)というサイトの文章が好きでよく読んでいた。もともと2chに短編を載せたりしていたひとで、十年前くらいに三秋縋の名で「ネット発の書き手」としてデビューした。よくあるアニメの背景っぽい表紙の文庫本が出たことを憶えている。デビューと同時に、おれが好きだった日記とかをほとんど削除してしまった。書いたものは書き手のものだけど、読んだ人の中にも思い出のような形で残るので、単純に悲しかった。フィジカルの本なら自分が所有している限りこういうことは起きない。ネット上の読み物のはかなさはたしかにある。
思えば十年前はそういう「Twitter発の」「ネット発の」本がよく出た。今の方が何倍も出てるのだろうが、あまりに当たり前に出すぎてもはや意識のはじにもない。蒼井ブルー、DJあおい、森もり子、error403、げんふうけい……当時はそういう人たちが商業に行くことがなんだか嫌だった。なんだろうね、あの感覚は。まあDJあおいとかはそもそも芸風が嫌だったし、ていうかほかも今見返すとこっぱずかしくなるようなのばかりだったような気もするが、なんだろう。俺たちのネット文化がメジャーに回収されるっていう感じ? 2chの「嫌儲」の影響? ま、当時をネットで過ごした人にとってはありがちな感覚だと思うし、ことさらに俺が書かなくても誰かがもっと正確に書いているだろうな。
いまやネットはアクセスする場所ではなく、ただの現実の拡張になった。だから「ネット文化が」とか、切り分けて考えることもできない。まあこれも誰かが書いてるか。にゃるらとか恐山のネット語りを見ていると自分がただの一モブにすぎなかったことを嫌でも実感する。解像度にしろ情報量にしろ全然違うのだ。それに記憶がすでにかなり薄らいでいる。じきにこういう話もしなくなるのだろうけど、そうだとしたらやっぱり日記はそのうち印刷してしまっておいた方がいいかもしれない。ネット上の読み物ははかない。

煙草を吸いに出たら雨が降っていた。喫煙所に並ぶのも嫌なので代わりにコンビニに行って二リットルの水を買った。一日二リットルの水を飲みなさいとかいうけど、たしかに言われてみると一日に500mlも飲んでないことが結構ある。それでは調子もよくないはずだ。
雨はきつい。しみじみ気分が灰色になる。常にほとんどの窓のブラインドの下ろされた建物の中でさえ普段より薄暗い気がするのはなんでだろう? 今日はあまり陽気な日記にはならないかもしれない。陽気な日記だったことなんかないか。まあなんにせよ、気分が文章に保存できるというのは大したことだ。一週間前に書いた日記には一週間前の気分が残っている。

テキストの文字数をカウントしてくれるページがあったので一か月分の日記を突っ込んでみた。62696文字。原稿用紙で157枚。ひいひい言いながら書いた卒論がたしか2万字だったかと思うから、その3倍はもう書いているわけだ。まあそんなもんよね~。毎日1500字くらいは書いているわけだから。まあ原稿用紙157枚、というのはなかなかいい数だなと思う。原稿用紙ってなんで400字詰めなんだろう?手書きだからか。パソコンが当たり前だと、1000字くらいが何となく気分の節目だ。

文字数カウントのサイトは古風なもので、ちょっとホームへ行ってみたら、チョコエッグコレクターの女性が中身をトレードするための掲示板を運営しているページだった。もっとも掲示板はリンク切れとなっていたが。こういうサイトも今はまだたまに出会うことがあるけど、あと十年もしたら本当に見ることもなくなるんだろうな。Yahoo!ジオシティーズのサービス終了がもう五年くらい前だっけ?たしかその時にもnoteに書いたな。消しちゃったけど。こういう昔の個人サイトを維持しているサーバもそんなにはないだろうから、たとえばODNがサービス終了しますとなったらまたぐんと減るんだろう。そしてアフィリエイトブログばかりが検索上位に来る状況は加速して、ひょっとしたらChatGPTが検索の代わりになって……十年後にこういうサイトに出くわしたら泣いてしまうかもしれないな。
Web魚拓なんてのもあるが誰かが残したものしか残らないし、そのサービスがなくなったらそこで終わりだ。それに実際のサイトを見るのと、魚拓で見るのとだとやはり違うことは違う。

あー。すっかり後ろ向きの日記になってしまった。まるっきり過去に向いている。こういうことを今後も一年に一回くらい書くのかもしれない。そんなに大事な記憶なのかな、これって。中高の楽しい思い出もけしてなかったわけではないはずだけどいちど闇に葬ったからかあまり思いだせない。もっともネットの回顧ならまだしもほかの人に伝わるニュアンスがあるが、実際の自分の中学時代まで頻繁に書くようになったら終わりだな。しかしどうせ今後もっと思いだせなくなるので、書けるときに書いた方がいいという考え方もある。でもそもそも、過去の記憶っていうのはそんなに大事に維持しておくべきことなんだろうか? こうやって過去を意識することが自分の足を引っ張っていないか? わからない。やれやれ。

喫煙可の、古くて暗い喫茶店で昼食をとった。いつも何か後ろぐらい気持ちになるので数か月ほど行っていなかったのだが今日はいいかと思った。いつもビートルズがかかっていることも自分の停滞を思わせて(おれは大学のころビートルズのコピーバンドをやっていた)後ろめたい。ビートルズはいまだに好きなのだけれど。食事はまずくはないがうまくもなく、いつどれを食べても新鮮に感じることがない(めちゃくちゃ失礼)うえに栄養バランスも悪い。タバコも当然吸うわけで、つまり自分の身体を、精神を、丁寧に扱ってやるという思想からもっとも遠ざかった場所なのだ。そういう場所と分かって通うのは軽度の自己虐待かもしれない。明後日も出社だがその時は行かないだろう。

いやなことがあった時に気分転換するということが基本的に苦手である。苦手というか、そもそも発想が近年までなかったといってもいい。自己憐憫の味は苦くて甘い。自分のせいだ、とひたすら落ち込むことで、ある面では現実から逃げていられたし、それが癖になっていた。以前のnote(三年ほど前に書いていた)が基本的に読むに堪えないのはそのへんだ。自分がどうしようもない原因を過去に求める限り自分のどうしようもなさは固定される。積極的にやめていたのだが今日はもうそういう気分だ。が明日には引きずりたくない。今日できるだけ吐き出してしまって、明日は違うことを書きたいと思う。

読み返していたら徐々に気分がすいてきた。さっき吐き出して、と書いたばかりだけどふだんは基本的にその効用よりは反芻してしまうリスクを警戒している。でも今回はわりと書くことで消化できたらしい。
帰ったらピアノの練習でもしようかな。三か月くらい弾いてない。

自分がどういうミュージシャンになりたいのか、どういうギターを弾きたいのか、ひいてはどう生きたいのか、わかっているのか、いないのかわからない。たぶん傾向はあるのだけどその時々で傾倒した人に影響を受けすぎて、よく変わっていく。十年後くらいにははっきり見えているんだろうか。人間とは環境であって、決断は折々の「しかたがない」によってもたらされるというのが自分の人生観だけれど、単に自分がそういう人間というだけかもしれない。おっと、またなんか暗くなってきた。まあでもしょうがない、今日はそういう日だ……。

本物の男なので雨の中傘もささず屋外喫煙所でタバコを吸ってきた。
「本物の男」という表現、誤った男らしさを揶揄うのにちょうどいいので結構好きなんだけどそのニュアンスが伝わるかわかんないからリスキーだな
昔Twitterで狂人のことを「本物の男」と呼ぶノリがあって、かなり笑ったのだけどその感覚もあんまり褒められたものではないよなあ。

今日はやたらめったら書いてしまった。しょうがねえなあ。

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