2023.6.15(安定と変化)

梅雨だ。だいぶしんどい、というか、やる気が出なくてボーッとしていたが、この時間からちょっと動けるようになってきた。風呂に入って、布団をしいて、夜風を入れながら扇風機を回している。涼しい。

積んでいた本をパラパラとめくった。香山哲の『プロジェクト発酵記』。意外と文字が多いし、内容的にも自己啓発的なところが多少あるので、そういう本を読むのがそんなに得意でない自分には時間がかかる。でも久々に本をめくってみて、ああなんか最近はアウトプット過多だったかもしれないと思った。この日記なんかまさにそうなんだけど。おもにTwitterかな。

で、一旦アカウントを消してみた。Twitterをやっていること自体に、大きな負い目とかを感じることは最近なかったし、今もそこまではないのだが、Twitterくらいさらっと辞めて、気が向いたらまたアカウント作って、くらいにしておいた方がいいような気がした。あくまで(気を抜くとすぐあのプラットフォームで何か言いたくなってしまう)自分についてはだが。デジタル・デトックスとか、SNS中毒とか、そういう借り物の理由よりは、まあそういうのもあるけど、いったん気分を変えてみたくなった。って、明日にはまたアカウント復活してなんか書いているかもしれないけど。できるだけやめたくはある。

さいきんインプットが貧弱だった。まあなにも、そういう概念にそこまで拘ってはいないのだけど、音楽についてはブルースに絞り込んだところだったし、本は読んでないし、映画なんかも観ていないしでとにかく、自分という部屋の一部分、たとえばソファで日がな一日過ごしているような感じで、刺激が少なかったのだ。自分は気を抜くとこういう状態になる。5月くらいはそれでも日常が快適で、日々を少しずつよくしていこうみたいな希望が空気に溶け込んでいたけれど、このところはとんと良くない。まあそういう意味では、常夏の国に生きるより、こういう変化がある国でよかったかもしれない。ずっとこれだったら本当に参ってしまうけど。

春ごろから、自分の性格がまた安定期に入っていたのを感じていて、結構悪くないじゃん、みたいな気持ちになれたのは良かったのだが、それはそれで、やっぱり更新していかなければならない。安定→変化、の繰り返しだというコンセプトがなんとなく根底に(『勉強の哲学』の影響で)ある。安定していたものに対して不安になって変化を入れた方がいいのではと思える、まあそれはそれでありか。

本を読むと、たとえ数ページであっても、自分の中に少し新しい空気が入る気がする。本を読んでいる自分に少し自信を回復するのもあるかもしれない。他人のアイデアがひとかけら入ってくる。すると、ああこういうのもあったな、と、使ってなかった脳細胞が(比喩だ)開くような感じがする。そういう気がするのは普段読まないせいかもしれないが、まあとにかくそんな感じがしたのだ。明日朝起きて、こういう気持ちがどれだけ維持されているかはわからない。いや、だからこそ日記を書く意味があるのか。

これは本当に何度も書いてきたことだが、「自分の書いた文章に啓発される」という、高校の頃読んだ言葉が胸の中にある。このところの日記はそういうものではなかったけれど、たまさかそういう気持ちを引っ張り出すことができる。今俺は多少ハイかもしれない。それでも自分は自分である。ハイになっている時の自分も受け入れてやっていい。それが、自分というあわいの中で生きるということだ。

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