週日記 ~5/26 だから僕は日記を

プロテインの種類を調べていたら、「これはたんぱくな味わい」という表記があって、いやタンパク質にその表現、と思った。
でも、「たんぱくな味わい」は「淡白」、「タンパク質」は卵の白身によく含まれているため「蛋白質」と書くそうなので、偶然の同音異義語だった。
"tanpaku" で同音異義語が発生するのすごい。

弦楽器の名前はヴィオラ(viola)から派生しているらしい
ヴァイオリンは viola+ino(小さい)→violino→violin
チェロは viola+one(大きい)→violone(コントラバスの元となった楽器) に
+cello(小さい)→violoncello→cello
チェロ、少なめの大盛りみたいで面白い

語源といえばもう一個。酔った状態を表す「へべれけ」の由来を調べたら、なんとギリシア語だった。
ヘーベーという美しい女神がいて、彼女にお酌(エリュエーケ)をしてもらった神々が、喜んで何杯も飲み干し泥酔してしまったことから、ヘーベー・エリュエーケ→へべれけ というらしい。
もちろん諸説あり、そうではないかもしれないが、こんな説があるだけでも十分おしゃれだなと思った。


最近サングラス買ったら目に入る過剰な光と情報が低減されたことで心も穏やかになり良い感じだったので、じゃあもともと暗い時にかけたらどうなんだろうと思い試してみたところ夜空から星が消えて遠くとの区別がつかなくなった


文章が論理的だと、書いてあることが正しいような気がしてしまう、という恐怖がある。高校の時に評論文をたくさん読まされて、何を読んでも(たしかにそうだな…)と思ってしまっている自分を発見したとき、僕は本を読むのをやめた(考えたってわからないし)。
たとえば、森林と文化の歴史から自然とのかかわり方を述べる文章があるとする。あるときテストで、結論が「だから人間は積極的に森林に手を加えてともに共生する必要があるのである」という文章を読むと、なるほどと“納得”して、僕も「たしかに手を加えていくべきだ」というスタンスになる。しかししばらくして、結論が「したがって我々が自然と近づきすぎることはこれまでの文化への理解を失うことに繋がる」という文章を読むと、「たしかに我々は自然と距離を保つことが必要だ」と”納得”してしまう。どういうことかというと、もともと自分の中に考えが無いのだ。そのテーマに関して何も考えていない状態で論理的に主張されると、吟味なく正しいものだと思ってしまう。読み方が受容の一辺倒になっていた。文章展開に論理的なミスや詭弁が無い限り、簡単にその内容に“納得”、場合によっては“共感”までもし、しかしながらそこに意志を持った自分は存在せず、ただ無邪気に他人の知らない主張が内面化され続けていった。


そこで、僕は何か意見を言っている文章は読まないことにした。世界について、僕が考えたことないテーマで語らないでくれ。僕は知らない。もう本当も愛も世界も苦しさも人生も、どうでもいい。

ただこれでは解決にはならないので、僕は、書くことにした。ある人に相談したところ、「考えたこと感じたことについて文章を書くんだ。なんでもいい、自分の書いた文章というのは、もっとも自分の立場を明らかにするし、もっとも自分が読む必要のある文章だ」、そんなことを言われた。18歳の頃だ。何か書ければ短くてもいい、そう思い、まずTwitterのアカウントを作った。そして、思うことあれば文字に起こして留めるようにした。その後も書くことを意識しながら他のSNSやアプリを経由し、今はこうしてnoteを書いている。


世界のできるだけ多くのことにとりあえず自分の考えを持っておく、というのは思っていたより良いことだった。差し当たり、論理的であるというだけでその筆者のスタンスに取り込まれてしまうリスクを減らすことができた。そして、自分について知るようになった。書くということは感じたことについて考えることであり、それを読むことを伴った。書かれることはオートマチックに反芻され、咀嚼され、いくらか記憶に残る。日々のほとんどの事柄は時の流れに忘れ去られてしまうが、一方で、書かれることは輪郭を与えられてから流されていくように感じる。私は何が好きで、何が嫌いなのか、何を見てどう感じるのか、どんな価値観を良しとするのか、それはなぜなのか。自分と世界との接点が、ときに接線や接面が浮かび上がり、あるいは構築される。自我を持ち始めたように自分と世界の解像度が上がっていくのは面白かった。

しかし最近、その安堵が脅かされることがあった。ラニーノーズのやばいファンのnote(「推し活を始め、推しに認知され、SNSをブロックされるまでの1年半」)だ。
怖い話だけど、一瞬彼の言い分に納得しかけた。たしかに言っていることが変ではないような気分になった。よく考えれば距離感がおかしいし、どこからどのようにおかしいのか、今は指摘できる。でも最初に読んだときはなるほどと思った。自分の言動を客観的に分析して、まともな論理展開で意見を主張している。おまけに文章もうまい。
久しぶりに昔の恐怖を感じた。分析をしっかり行い論理的なこと言ってるやつが正しいわけではないということを、ちゃんと覚えておかないといけないと思った。
ところで、りりちゃんのマニュアルにも似たものを感じた。マニュアルとしての完成度も高いし、本人の葛藤について語られている部分はドストエフスキーのような説明。カリスマとはこういうものかと思った。
やばいひとは文章がうまいことが往々にしてある気がする。きっと悩んだ量が僕とは桁違いなのだろう。
僕は彼らのようになりたいわけではないが、文章の惹きは学びたいと思わせるものがある。

まあでも、上手い文章を書こうと思ったら、本を読むのが良いんだろうなと思う。りりちゃんも読書家な気がする(督促が読めないらしいので違うかもしれない)。

書くために、本を読もう。読むために、文を書こう。だから、古本屋に行く、日記を書く。
古本屋で110円の本を4冊買った。noteの利用料は0円。こんなにもお手頃なんだから。


観た映画とか
・ショーシャンクの空に
・羊たちの沈黙
・ダンジョン飯

読んだ本とか
・走れ!タカハシ/村上龍


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