著…デボラ・ノイス 訳…千葉茂樹 監修…荒俣宏『「死」の百科事典』
世界中の人たちがどんな風に死と向き合ってきたかを百科事典形式で紹介している本。
淡々と書かれている分、怖いです。
しかも痛い話が多いので、この本を読むと自分の体まで抉られているかのように痛くなってきます。
※注意
以下のレビューにはネタバレ及びグロテスクな描写を含みます。
ネタバレや残酷な表現が苦手な方は読むのをお控えください。
まず、
という記述にわたしは目を疑いました。
き、切り落とし…?
殺人の犠牲者の遺体を!?
加害者の遺体を、と言うならば報復という意味で理解出来るけれど。
なぜ、よりにもよって犠牲者の!?
そりゃ、殺された人というのはさぞや無念でしょうし、きっとこの世にやり残したことが沢山あるでしょうから、生き返りたいと願っているかもしれないけれども…。
何も、切り落とさなくても…。
この本のはじめに、「悲しむのとおなじくらい、なぜ死者をおそれるのか?」という一文があったけれど、死者をおそれるあまり、遺体を損壊…!?
…けれどそうやってドン引きすること自体、現代日本に生きるわたしの勝手な価値観の押し付けに過ぎず、古代ギリシャの人たちは至極真剣にそうしていたのかもしれませんね…。
カルチャーショックですが…。
ちなみに、それと全く同じページにこんな記述もありました。
針で…とめる…!?
死亡しているからもはや痛みは感じないと思いますが、それでも、目を針でとめる時、遺体が「ギャーッ!」と叫びそうで怖いです。
…と、こんな風に、この本を読んでいる間中、わたしは衝撃を受けっぱなしでした。
中でも身の毛がよだったのは、
という文。
わたしの目の錯覚ですよね?
「生きたまま」と書かれている気がするけれど、わたしの気のせいですよね?
…もしも、仮死状態になってしまっただけだったのに死んだものと誤解され、埋葬されてしまい、目が覚めたら真っ暗な墓の中にいて、叫んでも叩いても誰も気づいてくれず、空気がだんだん少なくなって苦しみながら今度こそ本当に亡くなっていったのだとしたら…。
…嫌〜!!
そもそも間違いなく完全に亡くなっていて、死後硬直、弛緩、膨張などの変化を経る中で遺体が動いたかのように見えただけだ、と思いたい!
そういう意味では、手首や足首を切ったり目を針でとめるという恐ろしい行為は、本当に亡くなっているかどうかを確かめる機能も果たしていたのかも…?
どんなに深く深く意識を失っていたとしても、そんなことやられたら「ギャーッ!」と目を覚ますでしょうから。
でもそれって、生きたまま葬られないのは良いけれど、その代わりに失うものが多すぎる…。
「ごめん、手首切り落としちゃった or 目を針でとめちゃったけど、おかげで命が助かったんだから良いよね?」じゃ済まされない。
また、実際に…と言って良いのか分からないけれど、
というハプニングもあったそう。
…遺体の肺に残っていた空気が、解剖中、何かの拍子に声帯を震わせて声が出ただけだ、と思いたいです。
もしその人が実は生きていて、生きたまま解剖されたのだとしたら…。
…。
…何だか、この本を読んで色々想像しているうちに胃を含む全身が痛くなってきました…。
さて、この本でひときわ印象深かったのは、安楽死について述べたP48~49。
これらのページでは、安楽死は患者を助ける行為なのか、それとも「患者を死に導くような薬を与えない」というヒポクラテスの誓いに反するものなのか、ということに触れています。
いくら現代は昔と比べれば医療技術が発達したとはいえ、治せない病気や怪我もいまだに存在します。
もしもいつか自分自身が、何年待ったとしても治療法が確立される見込みの無い病気や怪我を抱えてしまったら…。
「自分ならどうするだろう?」と考えさせられました。
もしくは、身近な人たちがそういう状態になり、「苦しくてたまらない。楽にして」と懇願してきたら…。
どうすれば良いのか…。
非常にデリケートな問題なので、安易に答えは出ないけれど、これからじっくりと考えていきたいです。
〈こういう方におすすめ〉
「死」の事例について知ることで、自分や周りの人にもいつか必ず訪れる「死」について考えたい方。
〈読書所要時間の目安〉
2時間くらい。