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家庭教育は家庭学習だけじゃない | 家庭教育のススメ2-1

計算だけできれば、一生食べていけるでしょうか?漢字の読み書きができれば、社会で活躍(社会に貢献)できるでしょうか?

家庭教育≠家庭学習。教育は学習だけではないですよね。当たり前のことかもしれないけれど、あらためて捉えなおしてみます。

家庭学習ってなんでしょう?

まずは、家庭学習のイメージから迫っています。思い浮かぶのは、たとえば計算や漢字ドリルだとか、夏休みの宿題とか。特に小学校は、学校からの宿題の比率が高いかもしれません。高学年から中高生となると塾の予習復習が入ってくるケースもあるでしょう。「家でテキストを開いて、ペンとノートで何か書いている」ーー そんなイメージでしょうか。

親も家事や自分のことで忙しく、子どもが何かテキストを開いてノートに書いている雰囲気があれば「感心、感心。勉強してそうだ」と判断します。逆にリビングでゴロゴロしていたり、スマホやゲームばかりいじっていると「あそんでばかりいないで、勉強しなさい!」と言いたくなるのが親のさが。

(このとき親の気持ちの底には恐れがあります。「このままやることもしないで力をつけないで、将来自立できないままになってしまったら...」。親自身が恐れと向き合い処理することが必要。相手は子どもではなく親自身。が、これはまた別の問題。なので、ここでは深堀りしません。ちなみに、わたしはこの葛藤と闘うことがよくあります)

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「学習」の定義に、いまいちど戻ってみましょう。

"ならい学ぶこと。特に、学校などで系統的に勉強すること。"
Google検索 | 学習とは

「ならい学ぶ」「系統的に勉強する」とあります。これは知識吸収のプロセスと言うことができ、効率的なのは学校や塾のような専門の場・カリキュラムで集中的にインプットすることとなります。

その他、わたしたちは経験から学んで、行動パターンを変化させることも「学習」と呼んだりしますね。学習の範囲や深さについてはいくつかの捉え方があります。いずれにせよ、後天的に情報をインプットして、自分の中に蓄積していく特徴があると私は考えています。学校や家庭での教育における「学習」というものを考えるならば、知識のインプットの意味合いで使われていることが多いと思います(定着のためのアウトプットを含む)。

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教育と学習の違いとは?

「学習」はなんとなく理解が進みました。では、あらためて「教育」ってなんでしょう? GoogleやWikipediaを再度引いてみます。

教えて知能をつけること。人の心身両面にわたって、またある技能について、その才能を伸ばすために教えること。"教育とは" - Google

「知能をつける」とあります。知能には知識に加えてそれを使いこなす能力を含みます。さらに範囲は心身両面、技能や才能を伸ばす目的で教える行為のことを「教育」は指していると読み取れます。

もう一つ定義を見ましょう。

教育(きょういく、英語: education)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。 教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。"教育” - Wikipedia

こちらでも「心と体の両面」に働きかけるとあります。「教育を受ける人の知識を増や」すことはその一部であり、技能獲得や人間性修養を経て、その人が(すでに)持っている能力を「引き出す」という行為が「教育」と言えます。

すでにお気づきの方もいると思いますが、「学習」の主体は本人です。これに対して「教育」の主体は教育者側にあります。「教育」においては学習者は「教育」を受ける側になります。そもそも主語が違うわけです。

その子の能力を引き出そうと「教育」しようと考える大人がいなくても、子どもは環境とのやりとりから「学習」していきます。一方、「教育」の対象範囲は本人の「学習」だけにとどまりません。「教育」と「学習」は重なる部分を持ちますが、主語も範囲も別ものです。

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教育の方法は学習だけではない

以上のように考えると、「家庭という保護者が用意した環境で子どもが学習すること」が家庭教育なのか?という問いに対しては、NOとなります。それは一部であって、すべてではありません。

「学習」は、あくまで教育における一つの形態・方法です。「学習」とは、新しい知識技能を吸収しアウトプットする中で、だんだんと体に覚え込ませる1つのプロセスとわたしは考えています。

学習に関連して、英語にはStudyとLearnという単語があります。前者は研究なども含む探究的な知的活動、後者は学ぶ・習うという身体知としてOutputの方法までを体得する意味合いを持ちます。これらの単語を借りて子どもの「学習」の首尾範囲を捉えると、「Studyする対象のうち、正解が決まっているものをLearnする=Outputを含めて体得する状態にするトレーニングと結果獲得」を、「学習」は指していると言えると考えています。

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意図的な働きかけは、直接も間接もある

教育は「意図的な働きかけ」を伴うものなので、勉強させる・習い事をさせるという”させる”ことだけ、と考えがちです。しかし、意図的な働きかけは、直接的とは限りません。間接的な働きかけも意図的に仕掛けられるわけです。

むしろ、この間接的な働きかけの割合が多いほうがよいとわたしは考えています。

家庭教育は「つみ木」

簡単にいうと、ある程度 子どもの自由にさせてあげるということです。小さな子どもに、例えば つみ木 や 粘土 で自由に遊ばせることが一つのモデルです。

別の例をあげると、図書館のような大量の書籍をいつでも読めるように準備するところまでを親が行いつつ、どの本を読むかは本人の好奇心・自由意思に任せるというイメージです。有害な図書と親が判断するものについて、「読んじゃいけません!」と叱る代わりに、判断力が備わるまで、子どもがアクセスできるところにそもそも置かないということが、環境づくりを通した間接的な働きかけです。

子どもが小中高と大きくなっていくにつれ、親子関係の形、関わり方は変わります。しかし、子どもに自由にさせる余地は作り続ける。つみ木が形を変えて、その子どもの中にある才能を引き出す何らかの活動に変わるだけです。

親は子どもに意図的に・直接/間接両方で働きかけ続ける。これが「家庭教育」なのだと、わたしは考えています。特に「学習面」を学校や塾で補強しているならば、バランスをとるために、家では学習以外の部分を意識的に確保してあげる必要があります。(育つことの主体はあくまで本人であり、育てることの主体は親です。学校などの教育機関・教育産業は従属的なものです)

おいしくて栄養価の高いものでも、そればかり食べ続けていて、動かなければ体には毒になります。学習したものを、まったく違う形で自由に使う場所、また学習として与えられる機会と別の場所で出会う人や物事から、引き出され育まれる本人の好奇心と才能。生きている実感を感じ、将来の活動につながる人やモノとの出会いが、時間をかけてその子の中に育まれていきます。

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まとめ

「勉強しなさい」と言うこともできますが、今日あったこと・最近興味を持っていること・喜びや不安を聞いてあげる、親もシェアしていく。関係を育む中で、子ども自身が「心身ともに」自分を知り、世界を広げていくお手伝いをすることが親の家庭教育における役割だと考えています。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。教育や学習について考えを進める、何かのきっかけとなれば幸いです。

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