
【13】安物のお土産がプラスチックの味がすると気付く
人生の迷子になったので自分探しの旅に出たシリーズ
こちらにマガジンでまとめてます。
とある人にいろいろ相談にのってもらっていた時、私に関して「根本から違う」みたいなことを言われ、当時の私には全く「???」だったんだけど、本当に根本からおかしかった。ここで気づいていなかったらやばかったと思う。
いったい私はなぜ、本当は辛くなってきていた仕事を「楽しい」って思い込んでたんだろう。
当時の私の思考は恐らくこんな感じだった。
自分が選んだ人生、仕事で、前よりもやりがいもあって充実してて、好きなこともできているんだから『楽しい』と思わなければならない。
でも本当は、辛かった。『辛い』という感情を感じないように押し殺していたんだと思う。理屈で楽しいを捉えていた。感性の話なのに。
そこから数日かけて、数珠繋ぎのように、無意識で自分について来た「うそ」に気がついていった。
私のついてきた嘘
自分の味覚や感覚より、相手が喜ぶ答えを優先して答えを選んできていた。そうすべきだと思っていた。
ご飯を食べたあとで「あれ美味しい?」と聞かれても、相手が何て答えたら喜ぶかなと空気を読んでから答えていた。
美術展に行ったあと「どうだった?」と聞かれたとき。自分がどう思ったかより、「この人はなんて答えたら喜ぶだろう」と考えてた。
他者に対してどんな風に接したら誰からも責められないか、「常識」とか「正解」についての情報を集めて、理論武装ばかりしていた。なんなら、本に人生の正解が載っていると思っていた。
相手の気分に触る可能性があると思ったら、どんなに自分がしたくても押し殺してきた。
いつも「自分が何がしたいか」より、「相手が何をしたそうか」や「相手にどう思われるか」が先に来ていた。
人生、そうしなければいけないと思っていた。
「あれ?『私』は、本当はどうしたいんだろう?どう感じていたんだろう?」
この時をきっかけに自分が他者基準で生きていたこと、五感を閉ざし頭で生きていたことをはっきりと自覚していった。
「自分がやりたいことをやろう!」と言って人生を選んだはずなのに、そのさらに深いところに「他の人に迷惑が掛からない範囲で」と言う前提があった。
そのことにすら気が付いてなかった。
恐ろしいことである。
ほとんどの人はこういう「自分で自覚すらしていない、本人にとってだけ当たり前過ぎる思い込み」を持っている。それについては後述する。
あと、会社を辞めた後ぐらいから五感がぼんやりしてきていた。膜に包まれたみたいな感覚を覚えてはっきりと物事を感じられなくなることも増えてきていて「どうしてだろう?」と思いながら、まあいいか困るわけでないしと流していた。しかしこれが進むとウツになると知ったのは、随分後のことだ。
人生に「正解」があると固く信じてた
当時の私の思考を言語化すると、こうなる。
①人生には正解・不正解がある
↓
②正解・不正解は他人の評価
(嫌われないかとか・迷惑をかけてないか)によって決まる
↓
③その答えは本に載っている
(五感とか自分の感覚は、関係ない)
三段構造の思い込みである。
しかし、多くの人がそうであるように、私も自分の中にあるこの構造に、気が付いていなかった。
長年無意識に抱えてきたこの癖はいまだに抜けておらず、今でも気づいたら答えを探そうとしている。
というかぶっちゃけ「こういう時はこうする」という答えがあると生きるのが楽なのだ。
反応をパターン化すると、毎回感覚を使って決断をしなくていい。決断にはエネルギーがいる。
でも、全く同じ状況と言うのは人生にはないから、結局毎回その都度感じて決めるしかない。
今の私の思考はこうだ。
人生に正解・不正解はない
自分だけが答えを持っている
そして、この「自分だけの答え」を取り戻すまでにまた長い道のりがあるのだけど、それは、次の章にまとめて書こうと思う。
そうそう、この「それうそやろ」の時のことはあんまり覚えていないんだけど、ただひとつだけ今でもよく覚えていることがある。
ひととおり泣いた後、その方から勧められた、よくある「○○行ってきました」的なお餅っぽいお土産のお菓子を食べたこと今までにないほど味をはっきり感じたこと。
甘い味とプラスチックの味がした。
それでは、ホニャラ~
▽マガジンにまとめていきます
▽夫と私の古民家宿・ホニャラノイエにも遊びに来てね