原研哉『白』を読んで -白の受容性と僕が考える本屋余白の好きなところ
原研哉が見る「白」の豊かさ
白は色なのか
白は色と言えるのでしょうか。
そんな問いは一旦置いておいて、皆さんは無印良品をご存知ですか。独特のデザインや雰囲気のプロダクトを展開する無印良品。あの無印らしさが好きな方は結構いらっしゃるはずです。この記事を書いている小澤もその一人。多くの人を魅了する、無印良品のブランドデザイン。これを作り上げたデザイナー、原研哉氏をご存知でしょうか。
1958年生まれのグラフィックデザイナーで、武蔵野美術大学にて教鞭を取る傍ら、日本デザインセンター代表取締役社長も務めている方です。手がけたデザインは数知れず。無印良品のアートディレクターに加え、松屋銀座、森ビル、蔦屋書店、GINZA SIX、MIKIMOTO、ヤマト運輸のVIデザイン(Visual Identity)。ざっと調べただけでもこれだけ出ます。最近では東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム選考で2位まで残った、日本を代表するグラフィックデザイナーです。
今回はそんな原さんが2008年に出した『白』を読みました。
「結構マニアックな分野だな、小澤はデザインにも関心があるのかな?」と思った方、すみません(笑)。綺麗なデザインは人並みに好きですが、絵の才能は絶望的に無いのです。もちろんデザインの勉強をしたこともありません。原さんを知ったのは、つい最近、2022年6月12日に行われたTEDxUTokyoのイベントです。この話はまた後ほど。
この本はこんな文章から始まります。
こんな前書き、ずるいですよね(笑)まんまと次が気になって読み進めてしまいました。「白」を、さすがプロと思わず唸るほどの、多種多様な視点から眺める。素人には想像もつかない「白」の捉え方を、美しい言葉で読み手に届けてくれる。本を閉じた時、読者はもう「白」をいままでのようには見られなくなる。世界にある「白」が、違うものとして立ち現れる。そんな読書体験が得られる本でした。
日本の伝統色としての白
この本は四部構成です。
第一章【白の発見】では、白についての議論の前に、色というものについて再考しています。感性とは無関係で整理された物理現象としての色を離れて、感覚的で文化と結びついている曖昧な日本の伝統色について書いています。
見てくださいこの文章。原さんの紡ぐ言葉は美しく、その言葉すらも緻密にデザインされています。原さんの言葉遣いに触れられただけでも、この本を読んで良かったと真剣に思います。
話が脱線しました。この日本の伝統色の中でも、万葉の時代には色を表す形容詞は四つしかありませんでした。赤い、黒い、青い、そして白い。日本人の感性に白いという基準が古来から備わっていたことがわかります。
色の不在としての白
一方で、白は「色の不在」を表現している特殊な色であるとも言います。詳しくは読んでいただきたいのですが、僕は感覚ベースで賛成できました。というのも、幼稚園や小学校で好きな色を聞かれたときに、「白」って答える子ってたまにいたんですけど、「白って色なのかな?」って素朴な疑問を抱いた少年時代があったことを思い出しました。あと、色環というものがありますよね。補色を調べる時に使うやつです。これにも白って入ってないじゃないですか。
こんな経験から、書いてあることを全部は理解できないけど、白が他の色と違うことはなんとなく分かるぞと思いました。
自然界における白
原さんは、自然界における「白」を考えます。自然界にはたくさんの色が溢れています。赤く燃える炎、瑞々しい橙色のみかん、深い緑の森、青々とした海。一つ一つが美しい色を持つ自然は、その摂理で時間の経過とともに混ぜ合わされ、色は移り変わっていく。最終的には、まるで若葉が芽吹き紅葉して枯れ葉になるように、グレーの混沌に収束すると言います。しかし混沌は死ではなく、またそこから新たなエネルギーが生まれて新しいものが誕生する。
そんな自然界の生成と流転の中に、「白」を置いてみると、白の特異性が際立ちます。混じり合うという原理を逆行した、白。「負のエントロピーの極み」という原さんの表現は、言い得て妙だなと思います。混沌の収束が褐色であるのに対して、生命は誕生するときに白を纏う。私が好きなのは卵の話です。
ここまで本ではたった13ページ。ここで第一章は終わりです。章題【白の発見】というのは、普段目を通して知覚していたはずの「白」を、360度から眺め直す。そんな意味を込めた「発見」だと、僕は解釈しています。
僕の拙い要約では原さんの書いたことの10分の1も伝えられていない気がして悔しいですが、それでも今までになかった白への視点の欠片に触れられたのではないでしょうか。
さて改めて伺います。白は色なのでしょうか。
最初と比べて答えが変わった方、変わるかもしれないとモヤモヤしている方は、ぜひこの本を読んでみてはいかがでしょうか。
空白 エンプティネス
この後は第二章【紙】、第三章【空白 エンプティネス】、第四章【白へ】と続いていきます。僕は圧倒的に第三章【空白 エンプティネス】が印象的でした。なぜなら本屋余白と繋がるところがあったから。少し白とは離れるところもありますが、最後に第三章について書いてみたいと思います。ちなみにここからは、上と伝えたいメッセージは結構異なってきます。上とのつながりはあるようでない(?)ので、あまり気にしないでください。同じ本のことを書くのでまとめただけです。
「白」と「空(うつ。空っぽの意)」という概念は領域的に近い部分にあると主張します。ここから、「空」についての話を少し。白は直接出てきませんが、また白について話すのでご辛抱を。
受け皿としての神道
さて、この「空」の概念を上手く表した例が日本の神道だそうです。神道は自然の中に八百万の神を見立てます。お米の一粒に七人の神様がいるとか言いますよね。これは見方を変えると、どこからでも神を招き入れ、イメージの力を運用するコミュニケーションの技術でもあると言います。
日本の神社の基礎となっているのは、「代」(しろ)です。地面の上に四方に柱を立てて、それぞれの柱の頭頂部を縄で結んだものが「代」。この柱が注連縄(しめなわ)で結ばれたことで内側に何もない空間ができる。何もない空間であるから、ここには何かが入るかもしれないという可能性が生まれるのだが、この「かもしれない」という可能性こそ重要であり、その潜在性に対して手を合わせるのが神道の信仰心である。その上に屋根を載せたのが屋代というわけです。(原さん、物知りすぎます。。物知りの頭の中を勝手に覗けるのが本のいいところなのでもありますが。)
うんうん。そんなこと微塵も考えたことないけど、神道文化に生きるものとして、この言説はしっくりきました。確かに僕も屋代の中身を見たことはないですが、参拝の際は頭の中になんとなく神様を想像していました。八百万の神と言いますが、色んな神様をあの空白の空間の中に、脳内で勝手に連れてきて(失礼?)、自分のお願い事を聞いてもらうのです。あの中身がメッセージ性を持ったものでぎちぎちに詰まっていたら、私たちのお願い事はそれに影響を受けてしまう気がする。空っぽだから、エンプティだからこそ、「思いの受け皿」として機能する。なんだが素敵ですよね。
勘の良い方は、僕がどこに着地させたいのか、そろそろお気づきでしょうか。こんなことを書くのも野暮ですね。次が最後の例え話。日の丸のお話です。
日の丸に意味はあるのか
日本の国旗、日の丸。あのデザインにどんな意味があると思いますか?
実は、あのデザイン自体に意味はないんです。白地に赤い丸。それでしかない。
天皇、愛国心、国家、戦争、平和、梅干し弁当。そういった意味を付与したとしても、それは恣意的なものでしかない。これに限らず、記号と意味の関係は常に恣意的なものです。例えばOKサイン👌。いいよ!了解!の意味もありますが、一方で、白人至上主義のシンボルでもあります。そんな例はごまんとあるはずです。まあそれはさておき、原さんは、そこには固定された意味はなく「解釈」しか存在しないと言います。白地に赤い旗がはためく時、シンボルはそれを見るすべての人の思いを残らず受け止めます。
「シンボルの規模はその受容力に比例する」そう原さんは続けます。
素敵な表現です。ところでもし日の丸に白い部分がなくて、赤一面の旗だったとしたら、人はこの国旗をどう解釈するのでしょうか。この豊かな解釈は生まれるのでしょうか。白の持つ力はここにも見出せそうですね。
サッカー日本代表の選手は国際試合でゴールを決めた後に胸の日の丸にキスをすることがあります。反日運動で日の丸が燃やされるシーンがマスメディアで流れます。椎名林檎の"NIPPON"(大好き!)のミュージックビデオは、4分に渡る演奏の後、椎名林檎が日の丸をつかんで立つシーンで幕を閉じます。どのシーンに出てくる日の丸も、それぞれのコンテクストに乗って初めて、メッセージを付与されます。日の丸自体に固定された意味があるのではなく、私たちが日の丸にどう意味を見出すかなのです。
本屋余白という「余白」
さあ、ここまで読んでいただきありがとうございました。私が皆さんにお伝えしたかったこと。それは、
本屋余白は、その名に相応しく、受容力、すなわちエンプティネスそのものでありたい
ということです。僕は、本屋余白とは、屋代であり、賽銭箱であり、日の丸であり、シンボルであり、受け皿であり、そして「余白」であって欲しいのです。
東大生協書籍部の店長を務める足立様にこう言われたことがあります。
もちろんnoteは書いていますしインスタグラムには想いも書いています。しかし、僕たちが売る本は基本的にすべて「誰か」の人生にとって大切な一冊です。
売っている一冊一冊に誰かの思いやメッセージがあって、あえてややこしい言い方をすれば、その思いやメッセージが本屋余白という「余白」を通してまた別の誰かに伝わっていく。
いろんな人が、いろんな思いで本屋余白におすすめをしてくれたり、Instagramを見てくれたり、応援の言葉をくれたり、本を買ってくれたりする。
一人一人にとって、僕たちの活動への「解釈」は違う。見知らぬ大学生が夢を語っていると思う人もいるでしょう。おすすめメッセージが素敵だな!と思って買ってくれる方もいる。もちろん何も感じない人もいる。友人が頑張っていると刺激をもらってくれる人もいるのかな?それで良いと思います。中にいる僕自身も、余白に対して感じることは時によって変わります。きっと多賀と僕ですら、余白の「解釈」が完全に一致することはないでしょう。それで良いのだと思います。その解釈を全て受け止めて、顔も知らない「誰か」の思いの総体としての本屋余白が僕は好きです。
最後に、本屋余白のお客様からいただいた嬉しいお言葉を添えて。